2018年4月22日日曜日

聖書を読む

ローマの信徒への手紙2章17~29節

関口 康

「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の箇所は、ローマの信徒への手紙2章17節から29節までです。この手紙の「本文」が始まる1章18節以下から話し始めて3回目になります。この手紙のパウロの書き方が螺旋階段になっていますので、私の説教の内容も「またその話か」と思うほど同じことを繰り返しつつ、少しずつ前進しているような感じになっていると思います。とにかく前進していますので、我慢していただきつつ、お聞きいただけますと幸いです。

今日の箇所の内容に入る前に、この箇所の読み方について私が思うところの注意点を一点だけ申し上げます。それは、パウロがこの箇所を、まるでパウロ自身には全く当てはまらないことであるかのように自分を棚に上げたうえで、自分以外の他の人々に対する批判や皮肉や当てこすりを書いているのではないということです。もしほんの少しでもパウロがそのような意図で書いているとすれば、この箇所でパウロが厳しく批判している相手と彼自身が同じことをしていることになります。しかし、パウロの意図はそういうのとは違います。

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(17~20節)と記されています。

ここでパウロは、自分を棚に上げて、自分以外の「ユダヤ人と名乗る」人々のことを批判しているのではありません。パウロが言おうとしているのは、今日の箇所の最後のほうに出てくる「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそユダヤ人である」(28~29節)という話につながります。民族や国籍の話をしているのではありません。その意味での「ユダヤ人」が「ユダヤ人を名乗る」こと自体には問題ありません。しかし、この問題は後回しにします。

「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」と書かれているのも、批判でも皮肉でもなく、すべて良い意味です。「律法」は今の「聖書」です。パウロが「律法」と書いている箇所のすべてを「聖書」と読み替えることが可能です。

「また、律法の中に」以下に書かれていることも同様です。「自負しています」(20節)にも「彼らはこういう偉そうなことを言っています」という意味はありません。パウロが挙げているすべてのことは「ユダヤ人の長所」です。それが悪いと言われなければならない点は、ひとつもありません。

私が繰り返し強調させていただいているのは、この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と呼んでいるのは、民族や国籍の話ではないということです。もちろん歴史的な意味での「当時のユダヤ教徒」を指していると言えないわけではありません。しかし、そう言ってしまいますと、わたしたちとは関係がない話になります。ですから私は、パウロが言う意味での「ユダヤ人」は、幼いころから聖書に親しんできた人のことだと申しています。私がそのようにこじつけているのではなく、パウロ自身がその意味で言っています。

私が申し上げたいのは、パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」が、わたしたちにとっての「何」に当てはまるかをよく考えながらこの箇所を読む必要があるということです。まだ抽象的すぎるかもしれませんので、もう少し具体的な話をします。

本日礼拝後、私にとってはこの教会で初めての教会総会が行われます。私はこの教会のことを何も存じませんので、皆さんのお話を聴かせていただく立場にあります。しかし、それだけでは無責任だと思い、過去の教会総会の議事録をかなり前のものから順に読ませていただきました。

時期や状況は皆さんのほうがよく覚えておられることでしょうから、そこはぼかしておきます。しかし居住まいを正されたところがあります。それは自由討論の記録でした。どなたのご発言であるかは記されていませんでしたが、「牧師の働きの80パーセントは説教である」というご発言がありました。とても重いお言葉として受けとめました。

なぜ今このような話をしているのかと言えば、今日の箇所でパウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は今のわたしたちの「何」を意味するかを具体的に例示する必要があると思うからです。それはたとえば「牧師にとっての説教」です。「キリスト者にとっての教会生活」です。それは祈りであり、賛美です。聖書に忠実に従って生きる堅実な生活であり、献身的な社会奉仕です。

説教や教会生活そのものについて、それを営むこと自体が悪いと言われてもわたしたちは困るだけです。しかし、パウロが言っているのが「ユダヤ人の長所」そのものが「ユダヤ人の短所」であるということだと私は指摘せざるをえません。「ユダヤ人」としての「営み」自体をやめるべきだと言っているのではありません。ここは理解が難しいところです。

「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と教えながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」(21~23節)と記されているのがそれです。

ここでパウロが極端なことを書いていると考えることは許されるでしょう。「教える」とか「説く」と言われているのは、説教者である私にとっては他人事ではありえません。しかし説教者全員が窃盗を働き、姦淫を犯し、教会の施設を破壊していると言われるのは、いくらなんでも言い過ぎです。

おそらくパウロ自身も、ここは極端なことを書いているという自覚を持っていただろうと私は信じます。しかし、パウロが言おうとしているのは、各論ではなく総論です。「あなたは他人に教えながら自分には教えないのか」という点です。自分の目の中の丸太を取り除くことをしないで、他人の目の中のおが屑を取り除こうとすることです。

そしてこれは決して、狭い意味での説教者だけに限定される問題にしてはならないことです。「聖書を読むこと」が「聖書を教えること」の大前提です。聖書を読むことはすべてのキリスト者が取り組んでいることであり、例外はありません。その意味でいえば、パウロの指摘は自分には全く無関係であると言える人は、教会にはひとりもいません。

今日の箇所でパウロが問題にしていることも、「聖書の教え方」の問題というよりは「聖書の読み方」の問題であるといえます。少なくとも事柄の順序は「教えること」よりも「読むこと」のほうが常に先です。逆の順序はありえません。

しかし、パウロがここで問うている「聖書の読み方」は、聖書に書かれていることについてのたとえば「歴史的・文献学的な知識の」正しさを問うているのではありません。パウロが問うているのは「あなたが教えているその聖書の御言葉を、他のだれよりも先に自分自身に当てはめていますか。そのうえで教えていますか」ということに尽きます。

そしてその場合の「自分自身への当てはめ」を考える際に、先ほど「後回しにする」とお約束した「外見上のユダヤ人」と「内面のユダヤ人」の区別の問題が関係します。聖書の御言葉を当てはめるべきは、わたしたちの「外見」ではなく「内面」であるということです。聖書の御言葉に外見的・形式的に従うだけなら、悪い意味の律法主義者と同じです。私たちの内面に、わたしたちの心の奥底に、聖書の御言葉をしっかり当てはめることが求められています。

そのことをしっかり行ったうえで教えられると、どのような教え方になるかを最後に申し上げます。聖書の言葉を自分に当てはめずに自分以外の人に当てはめて裁きの説教をすれば、もしかしたら説教者自身はスカッと爽やかな気分になれるかもしれません。「言ってやった」と。その説教者の個人的な支援者も同じかもしれません。「よくぞ言ってくださった」と。あるいは聖書に出てくる「悪役」を「これはあの人のことだ」と自分以外の人に当てはめるのも同じです。

しかし、真っ先に自分に当てはめたうえで聖書を教える人の言葉は、自分の心が痛くて辛くてたまらない状態で「この痛みをあの人にもこの人にも味わわせなければならないのか」と躊躇や葛藤を覚えながらのなんとなく歯切れの悪い説教になるかもしれません。それはもしかしたら、曖昧で優柔不断な説教です。肯定的に言い換えれば、説教者自身がクッションもしくは防波堤になっていて、人当たりの柔らかい説教です。

重要なことは、その聖書の言葉で説教者自身がどれほど傷ついているかです。人を慰める言葉になっているか、人を傷つけるだけの言葉になっているかです。家族に対しても、友人に対しても、わたしたちがふだん「キリスト者として」何を語っているかをよく吟味すべきです。

(2018年4月22日)