2017年10月16日月曜日

どうすれば人を好きになれるか(関西学院大学)

理工学部チャペルアワー(2017年10月16日、関西学院大学三田キャンパス)

ローマの信徒への手紙7章19~20節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」

関西学院大学のみなさん、はじめまして。関口康と申します。今日はよろしくお願いいたします。

私は千葉県に住んでいます。昨日電車で三田(さんだ)まで来ました。しかし、私は生まれも育ちも岡山です。岡山朝日高校の卒業生です。みなさんの中に岡山の方はおられませんか。

岡山の高校生にとって関西学院大学は憧れ中の憧れの大学です。その関西学院大学でこのようにしてお話しさせていただく機会を与えられましたことは、私にとっては光栄の極みです。ありがとうございます。

私が今日選ばせていただいたテーマは「どうすれば人を好きになれるか」というものです。しかしこれからお話しするのは、大学生のみなさんへの恋愛指南のような話ではありません。私はそういう話ができるタイプの人間ではありません。

そうではなく、聖書やキリスト教についてのよくある誤解に関することです。しかも、どちらかといえば真面目な人や熱心な人が抱きやすい誤解です。しかもそれは、聖書の中途半端な読み方に起因する誤解です。

それは何かといえば、学校であれ教会であれ、聖書とキリスト教を学びはじめ、その学びが次第に面白くなり、聖書に出てくる神さまのことが好きになってきた人々の中に、極度の「人間嫌い」になる人々が出てくる、という問題です。

もともと人間嫌いだった人が宗教にハマり、現実逃避に走るようになったという図式に当てはまる場合がないとは言えません。しかし、その順序だけでなく、もともとは人間愛に満ち満ちていたような人が、聖書を読みはじめ、聖書に出てくる神さまを知るようになると、だんだん人間嫌いになっていくという順序の場合もあります。

その人々が口を開いて「人間」もしくは「人間的」という言葉を発すると、それは常にネガティヴな意味です。「あの人は人間だ」という言葉がなぜか常に悪い意味です。「あの人は人間的な人だ」と言えば、その相手に対する最大限の侮辱の言葉です。

しかし、考えてみればおかしな話です。人間とは人間であると言っているだけです。人間と人間を等号で結んでいるだけです。ただの同語反復です。それがなぜかいつも悪い意味なのです。

その原因は比較的単純です。「あの人は人間だ」とか「あの人は人間的な人だ」という言葉を常にネガティヴな意味でしか言わなくなる人々は、人間を神と比較しているのです。その人々は神と人間を対比し、両者を対立関係でとらえています。だから「人間」は常に悪い意味になります。

神は完璧で偉大な存在である。その神と比べると人間は不完全で失敗だらけ。ひどく愚かで罪を犯す。そんな人間を愛することなど私には不可能である。存在の価値すらないゴミのような存在であるとしか認識できない。もはや憎しみと軽蔑しか感じない。このようなことを真顔で言い出す人々がいます。

私は、それはとてもまずいことだと思っています。そもそも神と人間と比較すること自体が問題です。次元の違う存在同士をどうすれば比較できるのでしょうか。

しかし他方で、これは一筋縄で片づけることができるような単純な問題ではないとも考えています。なぜでしょうか。「それでは人間は全面的に肯定できる存在なのか」という深刻な問いが必ず残り続けることになるだろうと思えてならないからです。

自然という自然をめちゃくちゃに破壊してきたのは人間です。人が2人いればすぐにケンカになる。3人いれば収拾がつかなくなる。常に争い合い、憎しみ合い、傷つけ合うのが人間です。こんな存在を無条件に全面的に肯定することができるでしょうか。そんなことをしてよいでしょうか。それもそれでまずいことのような気がしてなりません。

しかし、その場合の問題は、人間を相対化する方法は何かということです。神を信じない人は神の存在を前提にして考えることはできませんので、神以外の何ものか、しかも人間よりも大きな存在と人間を比較して、人間を相対化するしかないと思われます。

たとえば宇宙や地球と人間を比較すれば、人間がいかに小さく無力で無能であるかを少しくらいは思い知ることができるかもしれません。

しかしそれだけでは生ぬるいのではないでしょうか。その話には深みが全くありません。その方法では人間の罪の問題を指摘することができません。人間はもっと責められる必要があるのではないでしょうか。

先ほど朗読していただいたのは、使徒パウロのローマの信徒への手紙7章19節と20節の言葉です。ここに書かれていることを一言で言えば、人間とはいかに矛盾し、内面的に葛藤する存在であるかということを、ある意味でパウロ自身の告白として、しかしまたすべての人間の普遍的な現実として、嘆き悲しんでいる言葉です。

「わたしは望んでいる善を行わず、望まない悪を行っている」(19節)と書かれています。善いことをしたいという願いはある。悪いことをしたくないという願いもある。しかしその願いに反して自分は悪いことをしてしまう。自分の意志を自分でコントロールできない状態です。

それでパウロはとんでもないことを言います。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(20節)。

こんな言い訳が通用するでしょうか。「私がしたのではなく、私にとりついたバルタン星人がしたことです。だから私は悪くありません。信じてください」と言っているようなものです。こんな話をだれが信じてくれるでしょうか。

しかし、こうとでも言わないかぎり到底説明できないほどまでに人間とは激しく矛盾に満ちた存在であるということについては、全く理解できない話ではありません。この箇所に描かれているのは、自分の罪の問題を抱えて葛藤し、苦しむ人間の姿です。

さて、そろそろ結論を急ぎます。今日のテーマである「どうすれば人を好きになれるのか」という問いの答えです。二つの可能性を申し上げておきます。ただし、あくまでも「論理的な」可能性です。考え方の筋道としてありうるというだけです。

第一の可能性は、聖書を読むのをやめることです。そうすれば極度の人間嫌いに陥らなくて済むかもしれません。私は牧師ですのでこういうことを言ったということだけで問題になるかもしれませんが、ひとつの可能性として否定することはできません。

聖書を読むのをやめるとは、人間以上の存在としての神を知ることをやめることです。神や宗教のようなことを考える思考回路を完全に取り外してしまうことです。そうすれば、神と比較して人間をおとしめるようなことを考えなくて済むようになるでしょう。

そしてそうなれば、人間を上の方から抑えつけて批判し非難する存在はもはやどこにもいません。人間はすべてのプレッシャーから解放され、世界最強のルールとなります。誰も人間を裁くことはできません。まさに人間最強説です。

しかし、もう一つの可能性があります。それは、もっと深く聖書を読むことです。聖書の真意を理解することです。そうすれば、人を好きになれるかもしれません。

「聖書を読むと人間嫌いになる」というのは、実は聖書の誤解であり、中途半端な聖書の読み方です。

たしかに聖書は人間の罪深さ、愚かさ、惨めさを容赦なく描いています。人間がいかに激しい自己矛盾を抱えて悶々と葛藤し続ける存在であるかを聖書は知っています。読めば読むほど自分が人間であることが嫌になるようなことが聖書に書かれているのは事実です。しかし聖書に書かれているのはそれだけではありません。

小さく愚かで惨めなわたしたち人間を、神はイエス・キリストにおいて無条件に愛してくださり、受け容れてくださっているということを、聖書は確かに記しています。今日の聖書の箇所の続きにパウロが書いているのも、そのようなことです。

聖書をもっと深く読めば分かるのは、そういう神がおられるということです。神が人間を愛してくださっている。そしてわたしたち人間は神に愛されている存在であるということです。

もし神が人間を愛してくださっているなら、そんな人間を私も好きになってみようかと、もしそのように考えることができるようになれば、今よりもっと人を好きになることができるようになるかもしれません。

(2017年10月16日、関西学院大学理工学部チャペルトーク)

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