2018年7月29日日曜日

感謝の生活

ローマの信徒への手紙6章15~23節

関口 康

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

今日は7月最後の日曜日です。「私事で恐縮ですが」という言い方は当てはまらないかもしれませんが、私を担任教師にしていただいて4か月になります。1年の3分の1が経過しました。残り3分の2です。

4月の最初に私がお約束したのは「主日礼拝で1年間かけてローマの信徒への手紙を取り上げます」ということでした。しかしそれは、私がまだ皆さんのことを何も存じ上げない段階でのお約束でした。つまり、私から皆さんへの一方的なお約束でした。

しかし、「お約束」と申し上げていますが、「約束」というのは一方的なものであってはいけません。お互いに納得することが大切です。一方的に言うだけなら脅迫です。

なぜこのようなことを申し上げているか。お名前は伏せますし、今日ここにおられる方かどうかも伏せますが、ある方からご意見をいただきました。それは「たまにはイエスさまのお話を伺いたい」というご意見です。

それもそうだと思い直すところがありました。ここは猛然とアピールしますが、私は教会の皆さんからそういうご意見をいただくと、すぐ動きます。何のこだわりもありません。自分が立てた計画とか目標だとかいくら言っても、もしそれが一方的なものなら何の意味もないと思っています。ご意見をいただけたことに感謝しています。

来月から計画を変更いたします。具体的にどうするかは考えさせてください。1年間の説教予定表を自分で作りましたが、それを皆さんにお配りしているわけではありませんので、「どうぞご自由に」と思われるかもしれませんが。

こういうところも私の自己紹介の一面であると受けとめていただけますと助かります。私には何のこだわりもありません。そういう人間だと思っていただきたいです。

私がかつて働きを得た教会で、自分の立場や自分の考えで教会を変えてやろうなどと考えたことは一度もありません。それで叱られることが何度もあったほどです。あなたは優柔不断であるとか、自分のポリシーがないのかとか、さんざんです。

しかし、お叱りを受けるたびに私が思うのは、私よりもはるかに前から教会はあるということです。大げさではなく事実として2千年前から教会はあります。自分のやり方や考えで教会をどうにかしてやろうと考えること自体が傲慢の極みです。

強いて言えばそれが私のポリシーです。「自分のポリシーで教会をどうにかしてやろうという考えを一切持たない」というポリシーです。

だんだん何を言っているか分からない感じになってきましたので、このあたりでストップします。しかし、今日までは先週の週報で予告したとおりにさせていただきます。ローマの信徒への手紙の6章15節から23節までの箇所を、司会者の方に朗読していただきました。

この箇所にパウロが書いていることは何か。彼自身が書いているとおり「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(19節)ところであると言えそうです。しかしそれはあくまでも当時の人々にとっての「分かりやすさ」ですので、今のわたしたちにとって分かりやすいかどうかは別問題であると言う他はありません。

この段落でパウロが言おうとしていることを私なりに要約してみます。パウロが最も言いたがっているのは、いわゆる信仰義認の教理についての疑問に答えることです。

わたしたちが義とされる(すなわち「救われる」)のは、自分の行いや業績、功績、功徳を積むことによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるというのが、いわゆる信仰義認の教理です。

そして、その場合の「信仰」が「働きなし」(4章5節)であるということをパウロが強調しています。要するにわたしたちは「何もしなくても救われる」のです。

その意味は、何か良いことをし、良い仕事をした人だけに報酬もしくは給料として「救い」が与えられるわけではないということです。「救い」とはそういうものではなく神の恵みなのだということです。乱暴な言い方をしてしまえば、神の恵みとしての「救い」は、何もしていない人にもばらまかれるものです。

しかしこのようなことを言いますと、おそらく多くの人が疑問を抱き始めます。もしパウロの言うとおりだとすれば、何もしないどころか、「積極的に悪いことをしようではないか」とか「どんどん罪を犯そうではないか」などと言い出す人が出てくるに違いないし、実際に出てくるではないかという疑問です。

もしそうだとすれば、真面目に生きること、正直に生きることがまるで愚かなことであるかのようになってしまいます。真面目な生き方は窮屈でつまらないものかもしれません。悪事を働き、罪を犯すほうが、よほど面白い生き方かもしれません。

しかし、各個人がそのような考えで行動しはじめると社会はどうなるでしょうか。神を信じることが犯罪の抑止力になるどころか、推進力になってしまうでしょう。宗教が道徳の土台になるどころか、破壊力になってしまうでしょう。まるで教会こそが犯罪の温床であるかのように。それで社会的信頼を得られるでしょうか。

そんなことになるわけがない、というのがパウロの結論です。その結論をめざしていろんなことを言っていますが、そのためにパウロが用いているたとえそのものが、わたしたちにとって納得できるものかどうかは別問題です。これで納得できるなら、それはそれで問題はありませんが、何を言いたいのかさっぱり分からないと思う方がおられるかもしれません。その気持ちも私には少し分かります。

パウロが用いているのは、奴隷のたとえです。わたしたちは罪の奴隷になるか、神の奴隷になるか、そのどちらかであると言っています。わたしたちが救われるとは、わたしたちを奴隷にしてきた罪のもとから解放されて、神の奴隷になることだというのです。

「救い」とは「罪から救い出される」ことです。わざわざ「罪から」と記されていなくても、「救い」という字を見るたびに「罪からの」という字をいちいち補って読むことが大切です。

しかし、わたしたちは「世の中から救い出される」のではありません。それは誤解です。てこの原理(支点、力点、作用点)で「世の中から」取り外されてしまうことが救いだというなら、救われた者はどこに行くのでしょうか。まるで救いとは世の外で生きることであるかのようになってしまいます。それは死ぬことを意味するでしょう。救いは「世の中で罪から救われること」でなければ意味がないでしょう。

そして「神の奴隷になる」とは、神の義の奴隷になることを意味しています。それは、わたしたちは正しい神に服従することによって正しい生活ができるようになる、ということです。そうである以上、信仰義認の教理が教会を犯罪の温床にすることになるなどありえないのだと、かなり噛み砕いていえば、要するにパウロはそういうことを言っています。

しかし、どうでしょうか。この説明でわたしたちが納得できるでしょうか。昔のことは分かりませんが、現代社会においては「どちらも嫌だ」と思う人のほうが多いのではないかと私には感じられます。「罪の奴隷」であるのも嫌なことだが、「神の奴隷」になるのはもっと嫌だ。そういう抑圧的なことを言い出すから宗教は苦手なのだと反発する人が圧倒的に多いのではないでしょうか。

よりによって、なぜ「奴隷」なのか。神の奴隷になることが救いであるなどと言われれば言われるほど絶望的な気持ちになる。神は我々を自由にしてくれるのではないのか。なぜ絶対服従を求めるのか。窮屈で仕方がない。

いま申し上げているのは、私がそうだと思っているという意味ではないです。宗教が嫌いだ、教会が嫌いだとおっしゃる方々の心の中にあるかもしれないことを想像しているだけです。外れているかもしれません。

しかし、私の考えを言わせていただけば、パウロの言い分を弁護したい気持ちです。パウロはなぜ「罪の奴隷」のほうだけでなく「神の奴隷」のほうまで言っているのでしょうか、真意が何であるかはパウロ本人に聞いてみるしかありません。ですからここから先は私の想像です。しかし、パウロが用いている奴隷のたとえは私には納得できるものです。

それは、わたしたちは「神の奴隷」にしてもらわなければならないほどまでに「罪」がわたしたちを支配し、拘束する力は強いということです。両方に二股をかけて、神にも罪にも自由に行き来しようとするのは甘いということです。「罪」という会社でどれだけこき使われても、もらえるボーナスは「死」しかないよと。

やや本筋から外れることを申しますが、この箇所にパウロが「悪の奴隷」ないし「悪魔(サタン)の奴隷」と書いていないのは、私にとっては興味深いことです。そのほうが話としては分かりやすいかもしれません。しかし、パウロはそのように書いていません。書いていないことが重要だと思います。

なぜそう思うかといえば、そもそも「悪魔(サタン)」とは何者かという根本的な謎があるからです。聖書に登場します。神でも人間でもない超自然的な存在であると長いあいだ、教会で信じられてきた存在です。そうではなく「悪魔」は人間であると理解するようになった人々もいると思います。あるいは、ただの比喩で、実際には存在しないと考える人もいると思います。

私はそのあたりはどちらでもいいと思っています。ここでも私の優柔不断ぶりをいかんなく発揮します。しかし、悪魔はわたしたちにとって信仰の対象ではありませんので「悪魔(サタン)の存在を信じる」必要はありません。

それよりも罪の問題のほうが重大です。罪の存在を信じるか信じないかなどと愚かな議論をする人はいないと思います。これほどまでに罪があふれている世界に生きているわたしたちの中に。

聖書が語る「罪」と一般的な「罪」の意味内容が異なることは私も分かっていますが、両者は無関係ではないし、完全に別のことを言っているのでもありません。わたしたちは、神にしっかりつかまえてもらわないかぎり罪の奴隷のままです。神だけがわたしたちを罪の強い拘束力から解放してくれます。

これがパウロなりの「分かりやすい説明」です。神への感謝の生活が、神のもとで始まります。

(2018年7月29日)