2018年7月15日日曜日

生命がみなぎる

ローマの信徒への手紙6章1~14節

関口 康

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」

今日の聖書の箇所の内容に入る前にお話ししておきたいことが二つあります。どちらも先週の役員会で話し合われたことです。私は役員会の議長でも書記でもありませんので、その立場からの報告ではありません。私との個人的なかかわりがあることだけを私個人の立場からお伝えしたいだけです。

第一は、教会の応接室のテレビを、牧師館でお借りすることになりました。これは感謝でもあり、お詫びでもあります。先週の説教の冒頭で「うちにテレビがない」とお話ししたのがきっかけです。「私にテレビをください」という意味で申し上げたつもりは全くありません。国内を揺るがす大きな事件や災害を知らない牧師の状態を懸念していただきました。ちゃんとテレビを観てくださいという話になりました。ありがとうございます。

第二は、今日の週報の表紙をご覧いただくとお分かりになりますが、「協力牧師」としてS先生のお名前を記載しないことになりました。事の詳細を申し上げる立場に私は全くありません。それはS先生ご自身がお話しになることです。

「くれぐれも誤解がないように」とS先生がおっしゃったのは、この教会への協力をやめるという意味ではないということです。週報に「協力牧師」として名前を載せるのをやめるだけです。この点はぜひご理解いただきたく、と言う立場に私はありませんので「ご安心いただきたく」と言うべきですが、よろしくお願いいたします。

この機会にS先生に対して私の個人的な感謝を述べさせていただきます。ご承知のとおり私をこの教会にご紹介くださったのはS先生です。しかし、S先生と私が最初にお会いしたのは昨年の11月14日です。わずか7か月前です。それまで全く面識がありませんでした。文字通り見ず知らずの私に関心をお寄せいただき、この教会の皆さまにご紹介くださったS先生に、私は感謝しかありません。ありがとうございました。

S先生に私を紹介してくださった方がおられます。それはM先生です。M先生は私の東京神学大学の先輩です。寮生活を共にしました。と言いましても、M先生が東京神学大学大学院を卒業なさって以来、一度もお会いしていませんでしたので、M先生と私も31年ぶりの再会でした。そのつながりの中で私がこの教会にたどり着きました。ありがとうございます。

そろそろ今日の聖書の箇所に向き合いたいと思います。しつこいほど申し上げてきたことを最初に再び繰り返します。今させていただいているのは「ローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰の内容を確認すること」です。

この点を強調する私の意図は、わたしたちはパウロの考え方に悪い意味で縛られる必要はないということです。それは特に考え方の順序や角度の問題であると申し上げておきます。わたしたちはいろんな考え方ができます。古代人であるパウロと現代人であるわたしたちの考え方に差があることは明白です。わたしたちはパウロが考えた順序や角度どおりに必ずしも考えなくて構いません。

ローマの信徒への手紙でパウロが最初に強調していたのは、すべての人間は生まれながらに罪人であるということでした。それが出発点でした。しかし、その出発点だけでなく、人間が本質的に善であることを出発点にして考えることもできることをお話ししたつもりです。

そして、罪人であるわたしたち人間が真の救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという話が次に来ました。そのように言う場合の「信仰」が「働きなしの信仰」であることに触れました。「私が信じる」というわたしたちの行為がわたしたちを救うという意味ではないということが明らかにされました。

もしそうだとすれば、熱心に信じる人は救われるが、熱心でない信仰の持ち主は救われないというような話になってしまうでしょう。あるいは、もしそうだとすれば、自分が救われるかどうかの鍵は自分自身の手の中にしっかり握られていることになるでしょう。

「救い」に関してすべての主導権を自分自身が握っていると思い込むのは危険です。天国に行くのも地獄に行くのもすべては自分次第であるというなら、果たしてわたしたちが本当に救われていると言えるかどうかが分かりません。究極的なエゴイズムを意味するからです。

そういうことをパウロはよく分かっています。だからこそパウロは「働きなしの信仰」という点を強調しています。信仰という自分の行為によって自分が救われるというのであれば、自己救済です。それは間違った考えです。その間違いを退けるためにこそ、信仰が神の恵みであり、神からの贈り物であることをパウロが述べています。

しかしここで申し上げておきたいのは、わたしたちは、パウロが言っているからそれは真実であると問答無用で受け容れなければならないわけではないということです。

いや違う、ローマの信徒への手紙であれ、他の手紙であれ、パウロが書いた手紙という次元はもはや超えている。聖書の御言葉になっている。聖書は「神の霊感によって書かれた」言葉である。そうである以上、問答無用で絶対的に受け容れなければならないとする考え方の人がいないわけではありません。しかし、わたしたちは必ずしもそういうふうに考える必要はないと私は申し上げたいのです。

聖書は「神の霊感によって書かれた」と言いますが、日本のイタコ、世界のシャーマニズムとして知られる意味での「憑依」がパウロを含む聖書の著者たちに起こったかのように信じる必要はありません。自分の意志も感情も人格も主体性も失って神に「書かされた」のが聖書であるという考え方をわたしたちが採る必要はないし、非常に危険です。「書かされた」とか言い出すのは、人間の無責任に通じます。

今申し上げているのは聖書のことですが、同じことがそのまま信仰にも当てはまります。どの点が最も当てはまるかといえば、信仰もまた自分の意志や感情や人格や主体性を失う意味の「憑依」ではないということです。

神の恵みは人間の中身を排除しません。信仰は神から与えられるものです。その意味で神の恵みとしての信仰によってわたしたちは救われます。しかし、それは「働きなしの信仰」として、それ自体には功績的な意味など全くありえないものです。そうであることと、信仰が与えられた人間の中から意志や感情や人格や主体性が失われることはないということは矛盾しません。

もっと単純で分かりやすい言葉で今申し上げていることを説明したいと願っていますが、思うように行きません。この点は非常に重要なので正確に理解する必要があります。

ある程度理解しやすいかもしれないのはオウム真理教のことです。教祖に帰依することは自分の主体性や人格さえ放棄することを意味していました。外部からコントロールを受けやすい無防備な状態になりました。わたしたちはそうであってはいけないと言いたいのです。

今日開いていただいている箇所にパウロが書いているのは、新共同訳聖書が付けている小見出しに従えば「罪に死に、キリストに生きること」です。この小見出しは正しいし、安心できるものです。

書かれている内容は、わたしたちが洗礼を受ける意義は何かです。印象的な言葉は「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(5節)です。またその言い換えとしての「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(8節)です。

「洗礼を受ける」とは、客観的な宗教学的な見方から言えば、教会の入会式です。教会の交わりに参加し、仲間になることを指します。それ以上でもそれ以下でもありません。そのことと現実の教会活動に直接的に参加できるかどうかという問題は別の次元のことになります。しかし、教会との関係を前提しない洗礼はありえません。教会の存在を度外視し、無関係であるような洗礼は無意味です。

その洗礼についてパウロが語る中で彼が強調していることは一つではなく二つです。一つではないと申し上げる意味は、洗礼の意味は「死ぬこと」だけではないということです。もう一方の「生きること」も、洗礼の重要な意味です。キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に葬られることが重要でないわけではありませんが、もう一つの側面として、キリストと共に生き、キリストと共に復活することも重要です。

乱暴な言い方かもしれませんが、死ぬことばかり考えないほうがよいということです。生きることを考えてよいということです。キリストと共に生き、キリストと共に復活することこそが洗礼の意味であり、目標です。

死ぬ死ぬと、そればかりが強調されますと、洗礼のイメージはひたすら暗いものになります。まるで自分の意志を押し殺すことが信仰であるかのようです。まるで人間であるのをやめることが救いであるかのようです。

そのようなことをパウロは言っていません。わたしたちが洗礼によって死ぬとは「罪に死ぬこと」です。罪は、それを犯された被害者の生命だけでなく、犯した加害者の生命を脅かします。罪悪感、隠ぺい、逃亡生活、実際の刑罰など、罪は加害者にもダメージを与えます。その罪の中から救われ、罪との関係において死ぬことによって生命がマイナスからゼロへ、ゼロからプラスへと転じます。

そのことと、洗礼を受けて教会の仲間に加わることがどういう関係にあるのか、教会生活によってわたしたちの生命がみなぎり、元気になるというのはどういう仕組みなのかということを説明しなければならないと考えましたが、やめます。そのことをお話しする時間が残っていないのでやめるのではなく、私の態度決定としてやめます。

それより「この私を見てください」と言えるようでありたいと思いました。「私を見てください。いつも元気でしょ。生命がみなぎっているでしょ。それは洗礼を受けて教会の仲間になっているからですよ」と。

「この私」は、私だけでなく、すべてのキリスト者のことでもあります。そのことをいくら巧みな言葉で説明できたとしても、実際の教会生活が重苦しいもので、暗い顔でよろよろしているようでは説得力がありませんし、何の意味もありません。

(2018年7月15日)