2018年4月29日日曜日

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ローマの信徒への手紙3章1~20節

関口 康

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今していることの狙いは、ローマの信徒への手紙を共に読みながら、それを狭い意味の聖書研究の時間にするのではなく、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の大切なポイントを押さえていく時間とすることです。

二千年前のパウロがどのように考え、信じていたかはどうでもいいなどと申し上げるつもりはありません。しかし、もっと大切なことは、今のわたしたちがどのように考え、信じるかです。

二千年前のパウロが考え、信じたとおりに、今のわたしたちも考え、信じればいいではないかと思われるかもしれません。しかし事態はそれほど単純ではありません。わたしたちは二千年前のパレスチナとは全く異なる状況を生きています。それが悪いわけではありません。

わたしたちは現代人です。現代人が現代的な考え方をし、現代的な信じ方をするのは当然です。そもそも、わたしたちにはそれ以外にどうすることもできません。

だからこそ、古代と現代をつなぐ橋渡しが必要です。教会と説教の役割は、古代と現代の橋渡しです。橋渡しの必要がないのであれば、聖書を朗読するだけで事が足ります。しかし、それだけでは済まないので、教会と説教が必要です。

パウロとわたしたちの共通する要素はもちろんあります。全くないなら、わたしたちが聖書を読む意味がありません。共通点は、パウロもわたしたちも同じ生身の人間であることです。パウロもわたしたちと同じように、空気を吸い、食べ物を食べました。うれしいことがあれば笑い、悲しいことがあれば涙を流しました。孤独なときは寂しいと感じました。

人間としての本質、そして感性や肌感覚において、パウロとわたしたちは完全に共通しています。だからこそわたしたちはパウロの手紙を、たとえ全部ではなく部分的であっても理解できるのです。それで十分だと私は思います。

今日の箇所の最初に出てくるのは、「ユダヤ人の優れた点は何か」(1節)という問題です。「優れた点」とは「長所」のことです。「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(2節)と続いています。そしてその「あらゆる面からいろいろ」の最初に挙げられているのが「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」という点です。

「まず」の意味は「第一に」です。ここで面白いのは、パウロがユダヤ人の長所について実際に挙げているのはひとつだけだということです。第一はあっても第二も第三以下もありません。おそらくパウロは、ユダヤ人の長所を箇条書きしようとしたのです。しかし、第一に挙げたことを深く考え、詳しく述べているうちに箇条書きするのを忘れたか、意図的に放棄したのです。

なぜパウロは箇条書きをやめたのか、その理由は何かという問題を深く追及するつもりはありません。ひとつだけ言いたいのは、パウロはこの手紙を、生きた会話として書いたのであって、学術論文を書いたのではないということです。思いつきでべらべらしゃべっているとまで言うのは言いすぎですが、あらかじめ整えた原稿を読んだわけではなかった様子が分かります。

しかし、今の点はあまり重要ではありません。はるかに重要なことは、パウロが「ユダヤ人の長所」を「神の言葉をゆだねられたこと」だと言っていることです。これは逆の順序で考えることができます。「神の言葉をゆだねられた人」が「ユダヤ人」です。そう考えることができるとしたら、そのとき初めて、ここに書かれていることと今のわたしたちとの関係ができます。

わたしたちは「教会」です。「教会」は「神の言葉をゆだねられた」存在です。つまり教会は、パウロが書いている意味の「ユダヤ人」です。パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は、そのままわたしたち教会の長所です。長所があれば必ず短所もあります。パウロが「ユダヤ人」について書いているとおりのことが、わたしたち教会に当てはまります。

今申し上げたことは、この続きに書かれていることを読むときにも当てはまります。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)。

この「彼らの中に」を、わたしたちが「教会の中に」と読み替えて考えることが可能です。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われると、わたしたちはドキッとします。そういうことがないとは言えません。

しかし、そのとき重要なことは、「それはあの人のことだ」と自分以外の人を真っ先に思い浮かべるのをやめましょうということです。それは先週申し上げたことです。なぜ自分のことを真っ先に考えないのでしょうか。なぜ自分自身に当てはめないのでしょうか。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われたときドキッとするほうがはるかに正解です。

しかし、そういう人が教会の中にいるとしても、だからといって、教会は信用できないとか、あんな信用できない人たちが信じている神は信用できないとか言い出すのはおかしな話であると、パウロが言おうとしていると考えることが可能です。

実際にはそういうことをよく言われます。高校で教えていたときも、よく言われました。よく勉強ができる生徒が世界史を学んで、キリスト教は歴史の中で戦争や差別を引き起こしてきた諸悪の根源だというようなことを言いました。歴史そのものは否定できません。しかし、だからといって、教会は信用できない、神は信用できないとまで言うのは、飛躍しすぎです。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)と書かれています。「真実」の意味は約束を守ることにおいて首尾一貫しているということです。神はご自分が立てた約束を絶対に裏切ることができません。それが「真実」の意味です。

しかし、だからといって「牧師もうそをつきます」だの「牧師も約束を破ります」だのと牧師である者たち自身が、声を大にして言うのは不適切です。開き直っているようです。そのこと自体で信頼を失うこともあります。

ここでパウロは、話を一歩先に進めます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

特に重要な言葉は「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」です。仮定の話ではなく事実です。しかし強いて言えば、教会に通っているわたしたちにはよく分かる話ですが、そうでない方々には何を言っているかが分からない、難しい話かもしれません。

それはどういうことかといえば、牧師が信用できないとか、教会が信用できないというような嫌な経験をしたことがある人には分かる話だ、ということです。そういう経験をしたのに、それでも教会生活を続けてきた人には。もう少し一般的な言い方をすれば、家族や友人など最も近い関係の人に完全に裏切られたことがある人にもきっと分かります。それでも生きてきた人には。

あなたはなぜ、今でも教会生活を続けることができているのでしょうか。信用できない教会、信用できない牧師から逃げ出すことができて、信用できる教会、信用できる牧師のもとに移ることができたからでしょうか。

あなたはなぜ、今でも生きることができているのでしょうか。あなたを裏切った家族や友人のもとから離れることができて、絶対に裏切らない人たちのもとに保護されたからでしょうか。

そのような教会があったでしょうか、そのような人がいたでしょうか。もしあったなら、いたなら幸せなことです。しかし、本当にそうでしょうか。理由は違うのではないでしょうか。

信用する対象が変わったからではないでしょうか。言い方は極端かもしれませんが、人間を信じるのをやめた。人間ではなく神を信じるようになったからではないでしょうか。

ひどい経験はしないほうがいいに決まっています。しかし、すべての人に裏切られ、教会にまで裏切られたときにこそ「神」を信じることへと初めて次元が移行することが実際にあります。神の存在が現実味を帯び、真剣なものになる。それは、人間に裏切られたときにこそ起こることである、ということは実際にあります。

だから教会は信用できない団体であり続けてよいし、牧師はうそばかりついてよいという話ではありません。そういうばかげた言い方は「『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(8節)というパウロの指摘に通じます。教会と牧師が積極的に悪さを働けば働くほど神が正しいお方であることの証明になるので、どんどん悪いことをしましょう、などというのは、全く恐るべき冒涜です。

しかし、「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」は、わたしたちの体験的な事実です。それは人を煙に巻く神学議論ではなく、ふざけた話でもありません。そういうきっかけでもなければ人が真剣に神を信じようとすることはないという事実そのものは、何とも言えない気持ちにさせられることではあるのですが。

最後に書かれているのは、箇条書きしようとしてひとつしか書かなかった「ユダヤ人の長所」の裏面です。「神の言葉をゆだねられたユダヤ人」がなぜ罪人なのかという問いの答えです。

「すべて律法の言うところは律法の下にいる人々に向けられている」(19節)からです。聖書の教えを、他人ではなく、自分自身に当てはめましょう。それができるとき初めて分かるのは、自分の存在が神の御心からいかに遠く離れた罪人であるかという事実です。「神の言葉をゆだねられた人」(わたしたち教会!)の長所が、そのまま短所です。

聖書を読んで「自分は罪人だ罪人だ」と自分を責めるだけの出口のない堂々巡りの中に閉じこもってしまうのは、きわめて危険です。小さな針穴でいいので風穴を開けましょう。そこが出口になります。

しかし、聖書に照らし合わせると自分は罪人であるということをはっきり自覚できることが聖書を読むことの恵みです。自分の弱さや欠けを自覚できるのは、まだ「伸びしろ」が残っていると知ることに通じますので、前向きな生き方です。

事実を直視するために、わたしたちは聖書を読みます。聖書は眼鏡です(カルヴァン)。

(2018年4月29日)