2018年7月8日日曜日

恵みが溢れる

ローマの信徒への手紙5章12~21節

関口 康

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

今日の私は、いろんな意味で気後れしています。皆さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。原因は「うちにテレビがないこと」だと、テレビのせいにしておきます。

なぜでしょうか、先週集中的に日本国内で起こった、いくつかの大きな出来事をほとんど知らずにいます。サッカーのことも、西日本豪雨被害のことも、オウム真理教のことも、いろいろあったようだと、なんとなく知っていますが、詳しいことは全く知りません。

先週木曜日、教会の方から「教会にちゃんと映るテレビがありますよ」と初めて教えていただいたのですが、結局観ることができませんでした。テレビを観る習慣がないわけではありません。むしろ好きなほうですが、まだ状況が整いません。

「そんなことも知らないのか」と言われても仕方がない状態です。情報の最先端を走っておられる皆さんから大きく遅れをとった状態で、著しい情報格差を感じつつ、今ここに立たせていただいていることをお許しいただきたく願っております。

聖書についてはどうなのかということも申し上げておく必要がありそうです。聖書は毎日読んでいます。今日の箇所も、穴が開くほど読みました。しかし、今日の箇所はとても難しいです。何が難しいのかというと、ここに書かれていることをわたしたちの現実に結びつけて理解できる言葉にするのが難しいです。

これも「うちにテレビがない」という話に戻っていくところがあります。今のわたしたちが置かれている現実をよく知ることなしに、今のわたしたちに理解できる言葉で語ることは難しい。そのことを痛感する一週間でした。

しかし、開き直るつもりはありませんが、言いたいこともあります。テレビで報道されていることはあくまでもひとつの見方にすぎないということは、ご承知の通りです。テレビこそ嘘をつくということもありえます。テレビが全く言わないことも当然あります。

ひとつだけご紹介します。オウム真理教で教団ナンバーツーと言われた人は、私の中学と高校の先輩です。彼のほうが3学年上なので面識はありませんが、彼がどのような学校教育を受けてあのような宗教に走ったかの背景が私なりに分かります。中学でも高校でも成績優秀で、医者になりました。

一方、死刑を執行した法務大臣のもとで現在働いている法務省ナンバースリーの法務大臣政務官は、これまた私の中学の同級生です。高校は違いますが、私の高校のライバル校の卒業生です。私は彼を覚えているし、彼も私を覚えてくれています。東大卒業、米国留学、検察庁検事になり、東京地検特捜部や在米日本大使館で働いた後、政治家になり衆議院議員になりました。

私は彼が次の法務大臣ではないかと思っているほどですが、学校教育という観点だけからいえば、オウム真理教ナンバーツーも法務省ナンバースリーも出発点は同じだということです。そして私も同じです。私は中学でも高校でも成績不良者のナンバーワンでしたが。

オウム真理教の問題は、これまでさまざまな角度から論じられてきましたし、今なお謎の要素が多いですが、今の学校教育のあり方が関係しているのではないかという話を聞くと、腹が立つことはありませんが、何とも言えない気持ちになります。

余談が過ぎました。今日開いていただきました、私にとっては「難しい」と感じる聖書の箇所と向き合いたいと思います。

この箇所に何が書かれているかを一言でいえば、聖書に最初の人間として登場するアダムと、イエス・キリストが比較されているということです。そのこと自体、今のわたしたちにとって訳が分からないことだと言っても過言でないと思います。「最初の人間がアダムであると聖書に書いてあるかもしれないが、学校の教科書にそんなことは書いていない。科学的根拠がない」と言われれば、そのとおりです。

あるいは、全く異なる観点から、「教会の信仰において、イエス・キリストは神である。神であるイエス・キリストと人間であるアダムとを比較すること自体が間違っている」という見方もできるかもしれません。どんどん謎の深みにはまっていく箇所のひとつだと、私には思えてなりません。

しかし、パウロが言おうとしていることは、私が今申し上げたような、アダムが歴史的に実在したかどうかとか、イエス・キリストが神であるかどうかというような次元の話から完全に切り離すことはできないとしても、いくらか区別することが可能かもしれません。どう言えばいいのか、それが難しくて分からないのですが。

今日の箇所に記されていることの中でパウロが言おうとしていることが最も分かるのは、18節です。「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。

お分かりでしょうか。こういう話だと思います。「一人の罪によって」の「一人」はアダムです。「一人の正しい行為によって」の「一人」はイエス・キリストです。そのアダムとそのキリストをパウロが比較しています。なぜ比較するのかというと、両者に共通点があることを浮き彫りにしたいからです。

具体的な話をしはじめると、いろいろ語弊が生じる気がしますので、なるべく避けたいですが、だれかと自分を比較するとか、自分以外のだれかとだれかを比較することは、わたしたちが日常的に行っていることだと思います。この人とあの人の共通点は、とりあえず人間であることだというあたりから始まって、あといろいろ。

やはりすぐ語弊が出てきそうなので具体的な話はやめておきます。「あの人は背が高い」と言うだけで問題になることがありえますので。ある人と他の人を比較するというのは、実際にそれをしない人はいないと思うくらいですが、たいてい嫌な話になります。楽しい話になることは、まずありません。最初に私の中学の先輩と同級生の比較のような話をしましたが、楽しい話ではなく嫌な話です。

私がこの教会で最初に説教をさせていただいたときに申し上げたことですが、「学校の教員ほど嫌な仕事はない。なぜなら、生徒の答案に点数をつけなければならないからだ」と申しました。「生徒に点数をつけること」は不可能ですが、「生徒の答案に点数をつけること」は可能ですし、それをするのが学校教員の仕事です。

評価することと比較することは切り離すことができません。学校だけでなく、どこに行っても比較と評価は必ずつきまといます。その点でパウロがしているアダムとキリストの比較も同じです。楽しい比較ではなく嫌な比較です。

アダムは最初の人間だったのに、彼が罪を犯したので、アダムから生まれた全人類がアダムの罪を受け継いでいるとパウロは考えています。アダムの罪を全人類が受け継ぐとはどういう意味なのか。いわゆるDNAだのという生物学的な遺伝子レベルの話なのか、というようなことを問題にしはじめると、ただ混乱するだけです。わたしたちは現代人ですので、どうしてもそういう次元のことを考えざるをえないわけですが、パウロはそういう話をしているわけではないと思っていただくほうがいいです。

それならばどういう話なのかといいますと、パウロが注目しているのは数字の問題です。アダムは最初の人間だったということは、アダムはひとりだったということです。つまりアダムの数字は1(いち)です。その1(いち)であるアダムからすべての人に罪が及んだ。「すべて」の数字は何でしょうか。満点を100点にするとすれば、100(ひゃく)を「すべて」と仮に決めることができるかもしれません。

そのアダムとキリストは同じだとパウロは言おうとしています。どこが同じなのかというと、キリストもひとりだったという点です。ひとりのアダムの罪によって始まった全人類の罪からの救いという神の恵みのみわざが、ひとりのキリストから始まったということです。

アダムの罪がアダムひとりから人類全体に広がったように、神の恵みもひとりのキリストから人類全体に広がっていくのです。1から出発して100に到達するという点で、アダムとキリストは数字的に一致しているというわけです。図式的で、ある意味で抽象的でもある話です。

しかし、それだけではありません。「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(15節)とパウロが記しています。比較しながら「比較になりません」と面白いことを言っています。どこが比較にならないかというと、「罪が溢れる」ことがあるかどうかは分かりませんが、神の恵みはあまりにも豊かすぎて溢れるものだ、こぼれおちるほどだというわけです。机の上からばしゃばしゃと。そこに両者の違いがあるとパウロは考えています。

数字でいえば、アダムの罪は1からスタートして100に到達したが、キリストの恵みは100以上であるということです。学校の先生が時々上機嫌で、よく書けている生徒の答案に「はなまる」を付けたりするのと似ているかもしれません。

こんなふうに考えていくと、パウロが書いているのはずいぶん楽しい話のように思えてきます。不謹慎な言い方は慎むべきですが、「神の恵みはすごいんだぞ」と言いたいだけかもしれません。

教会のことを考えさせられます。教会も最初はひとりから始まります。イエス・キリストが最初。最初の弟子はペトロ。現在は世界70億人の3分の1がキリストの弟子です。

開拓伝道の教会も、最初はひとりです。次第に人が増え、長い時間をかけて成長していきます。あるいは、家庭や職場や社会の中で、最初のキリスト者はひとりです。

ひとりであることは孤独であることを意味します。寂しさが伴います。しかし、そのときこそ今日の御言葉を思い起こしましょう。

「孤独に負けてはいけない。キリストもひとり。ひとりのキリストから、救いの恵みが全人類に及び、その恵みは豊かに溢れているのだから」とパウロが励ましてくれています。

(2018年7月8日)