2018年4月8日日曜日

人間を知る

ローマの信徒への手紙1章18~25節

関口 康

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」

今日からこの教会の副牧師として、毎月第1日曜以外の説教を担当させていただきます。よろしくお願いいたします。

1年間の説教計画を私なりに立てました。いろいろ考えた結果、1年かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げることにしました。しかし、ローマの信徒への手紙を学ぶというよりも、ローマの信徒への手紙の構造に従って、我々が共有すべきキリスト教信仰の内容を分かりやすく解説させていただこうと考えました。

難しいことをお勉強しましょうと言いたいのではありません。「ローマの信徒への手紙は難しい」とよく言われます。何を言っているのかさっぱり分からないと。いろんな解釈があってどれが正しいかが分からないと。そうであることは私も分かります。

キリスト教の教理のお勉強をしましょうと言いたいのでもありません。「キリスト教の教理は難しい」とよく言われます。それも分かります。

私はいろんな話し方をします。教会が違えば違う話し方をしますし、同じ教会でも場面や状況が違えば違う話し方をします。学校での話し方も教会とは違います。当然と言えば当然です。とにかく心がけたいのは「分かりやすい話をしたい」ということです。

先ほど朗読していただきました箇所は、1章冒頭の挨拶文が終わり、前回取り上げた「私は福音を恥としない」と書かれた直後の部分です。そこにパウロが書いているのは、新共同訳聖書の小見出しどおり「人類の罪」についてです。人間とはいかに罪深い存在であるか、ということです。

しかし、ここでさっそく誤解が生じます。パウロという人は、人間をはなから「罪人だ、罪人だ」と決めつける人だと。何はさておいても、ひとつの手紙の初めから「人間は罪深い、人間は罪深い」と書く人ですから。まるで機関銃のように、徹底的に人間に弾を打ち込み、痛めつけ、人間を抹殺する人だと。

パウロが普遍的な人間愛に満ち満ちた人だったかどうかは分かりません。もしかしたら、いくらか人間嫌いだったところがあるかもしれません。しかし、人間嫌いであるということは自分嫌いであるということでもあります。自分自身も人間ですから。

もちろん、自分以外のすべての人間が嫌いだという人がいないとは限りません。しかし、そういう人に私からお願いしたいのは「ぜひあなた自身も人間の中に加えてください」ということです。そうすれば人間を完全に否定することは難しくなるでしょう。もっと自分を愛しましょう。自分を愛するように、もっと人間を愛しましょう。

しかし、今申し上げているのは、パウロにお願いしたいことではありません。それは誤解だからです。ローマの信徒への手紙の本文を、パウロが「人類の罪」について書くことから始めたことには、パウロなりの理由がありました。そのことには今日は触れません。

私が今日申し上げたいのは、だからといってパウロは「人間は天地創造の初めから罪人として創造された」と考えているわけではないということです。そのような考えはパウロにはないし、聖書全体にもありません。

もしそういう考えが正しいのであれば、人間が犯す罪の責任は、人間自身には全くありません。「もし神が天地創造の初めから全人類を罪人として創造されたのであれば」、人類の罪の責任も、世界の悪の責任も、百パーセント神御自身にあります。そうとしか言いようがありません。

しかし、聖書全体の教えも、パウロの信仰も、そのようなものではありえません。ここでわたしたちが思い起こさなければならないのは創世記1章31節の言葉です。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とはっきり記されています。

この「お造りになったすべてのもの」に「人間」が含まれています。神は「人間」を「極めて良い」存在として創造されました。神が人間を初めから極めて悪い、極めて罪深い存在として創造されたわけではないということを創世記1章が強く主張しています。

ですから本当はパウロも、ローマの信徒への手紙の本文を「人類の罪」から書き始めるのでなく「極めて良い存在としての人類」という点から書き始めれば良かったのです。そのほうが誤解されなくて済んだでしょう。

「パウロが嫌い」とおっしゃる方がいます。何はさておき「人間は罪深い、罪深い」と言う。そう言ったうえで「その罪深いわたしたちを神がイエス・キリストにおいて罪から救い出してくださった」と言う。相手を「下げて上げる」。そういうパウロのやり方が嫌いだ。

疑問の感じ方はそれぞれ違うかもしれませんが、「パウロが嫌い」とおっしゃる方の話を聞くと、だいたい今申し上げたようなところに原因があるように私には思えます。

しかし、違うのです。神は人間を初めから罪人として創造なさったのではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在としてお造りになったのです。それが聖書全体の教えでありパウロの信仰です。「そんなことはもう分かっている」と思われる方は、ぜひもう一度自分の信仰を見直すきっかけにしていただきたいですし、驚きをお感じになる方は心にとめていただきたいです。

人間だけでなく「天地万物」も同じです。

私は子どもの頃から海が好きでした。私が生まれ育ったのは岡山県岡山市南端の岡山港のすぐ近くです。岡山県は瀬戸内海に面していますが、岡山市は瀬戸内海の一部の児島湾に面しています。

岡山港に面する海は、波もなければ風もない、見てもつまらない何も起こらない海です。しかし私は、そういう海を見に、学校帰りに自転車で毎日のように行き、日が沈むまでじっと佇んでいたような少年でした。

しかしそんな私が、海が怖くなりました。7年前(2011年)の東日本大震災以来です。しばらくは海に近づくことも見ることもできない状態でした。

しかし神は、空も海も陸も、山も川も動物も、初めから「恐ろしい」存在として創造されたのではありません。「極めて良い」存在として創造されました。今申し上げていることで、聖書についての正しい知識を問題にしているのではありません。私が申し上げたいのは、わたしたちが人間と世界を見るときの根本的な姿勢の問題です。

「人を見たら泥棒と思え」という諺があります。その意味は「他人は信用できないものなので、人は軽々しく信用しないで疑ってかかれ」ということです。リアルで説得力がある教えです。

しかし、聖書の教えもパウロの信仰も要するにそういうことなのかというと、全くそうではありません。「神は泥棒を御覧になった。見よ、すべては極めて悪かった」と創世記1章31節に書かれていません。

言い換えれば「罪は第一のものではなく、第二のものである」ということです。話が急に難しくなったかもしれません。

今申し上げたのは有名な神学者の言葉です。典拠を明示しておきます。戦後の日本の国際基督教大学で教えたことでも知られる神学者エーミル・ブルンナーの言葉です。

「罪は第一のものではなく、第二のものである」(教文館『ブルンナー著作集』第3巻、108頁)。ブルンナーがそのように書いていることの意味は、第一のものは「神の創造」であり、第二のものである「罪」は「創造への反逆」であるということです。

「極めて良かったものが悪くなった」状態が「罪」であり、「罪」は「堕落の結果」です。「堕落」とは良い状態から堕ちた状態です。今日の箇所に描かれている「変わった、堕ちた、逆らった」人間の状態は「堕落」もしくは「倒錯」としての「罪」です。

なぜ私はこのようなことを強調しているのかといえば、このことを受け入れることこそがキリスト教信仰にとって重要であると私が信じているからです。最も関係してくるのは、神がイエス・キリストにおいてわたしたちを罪から救い出してくださった、その「救い」とは何かという問題です。

その答えは単純です。人間は本来ないし元来、良い存在でした。しかし、その良い存在としての人間が、堕ちて悪くなりました。それが「罪」です。

もしそうであれば、「救い」とは人間の本来の「良い状態」へと戻されることです。人間の本来性の回復が「救い」です。

それは「人間が真に人間らしくなること」です。それ以上にはなりません。救われた人は「人間以上の存在」になりません。たとえイエス・キリストの十字架の力によっても、熱心な祈りによっても、わたしたちが「本来の人間性」へと回復されること以上に高められることはありません。

だから教会は絶対に傲慢になることはできません。教会の窓から外を見て「我々はあの人々よりも高い位置にある」などと考えることは絶対にできません。「分からず屋のあの人たちに、わたしたちが伝道してあげる」などと。わたしたちは「人間以上」になることはできませんし、なる必要がありません。

私はよく「人間的な牧師である」と言われます。それは、ある人々にとってはもしかしたら悪い意味です。もしかしたら私は厳しく批判されているのかもしれません。しかし、私はうれしくて仕方がありません。「人間」だと認めてもらえたことへの感謝以外ありません。「救われる」とは「人間が人間になること」を意味するからです。

誤解がないように言いますが、今申し上げたことをそのままひっくり返して「救われていない人は人間ではない」とか「人間未満である」などと言いたいのではありません。それはとんでもない誤解です。それこそ傲慢の極みです。

パウロが「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任がある」(1章14節)と書いていることも、パウロが福音を告げ知らせたいと願っている相手に対して自分が「上」に立ち、相手を「下」に見ているという意味ではありません。

「未開の人にも知恵のない人にも福音を宣べ伝えてあげる責任がある」と言っているのではありません。そのような態度で伝道が進むわけがありません。「見下げられた」と腹を立てられるだけです。

教会と世界の関係は垂直の関係ではなく、水平の関係にあります。両者は同じ地平に立っています。

そのことをわたしたち自身がすっきり自覚できるようになるとき初めて、教会の伝道が力強く進んでいきます。福音が前進します。

(2018年4月8日)