2017年2月11日土曜日

「ホームページ&メーリングリスト時代」の延長線上で

オランダ(2008年12月某日撮影)
ブログとフェイスブックとツイッターの関係を「時系列」の関係で考えてみている。ブログは過去の記録に向いているが、フェイスブックもツイッターも、過去へとさかのぼるのが面倒な仕組みになっている。ツイッターがチラシで、フェイスブックが立て看板で、ブログはパンフレットというのもありかも。

その意味でいえば、ブログはずっと残してもいいが、フェイスブックもツイッターも、ある程度記事が増えたら過去の記事を整理するなり処分するなりするほうがよさそうだ。何を書いたかを忘れるほど過去のものを突然シェアされたりリツイートされたりすると、びっくりするし、ぞっとすることもあるので。

以上はブログ歴9年、フェイスブック・ツイッター歴(同時に開始)8年の実感だ。その前の「ホームページ&メーリングリスト時代」(炎上時代)が10年あって、そのオルタナティヴとして「ブログ&SNS時代」をとらえてきた。次がどうなるのかは想像がつかない。ネットの歴史はたぶんその先も続く。

ツイッターやフェイスブックそのものにこだわる思いは全くない。何でもいい。ツイッターくらいの短いのを飛ばせるのと、フェイスブックのようなある程度の長さの時事ネタを流せるのと、長期保存できて過去に書いた内容を確認しやすいブログのような機能があれば、どの会社のどんなアプリでも構わない。

先に書いたとおり、「ホームページ&メーリングリスト時代」に頻発した炎上を繰り返したくないという願いのもと、その延長線上で「ブログ&SNS時代」をとらえているので、要は「炎上しにくさ」が確保されれば。ある程度顔が見え、ある程度メンバーを選べ、密室感がありながら同時に開放感があれば。

大事なことを書くのを忘れた。フェイスブックの「友達」とツイッターの「フォロワー」が増えすぎないように意識的に抑制しているのも「ホームページ&メーリングリスト時代」の延長で考えているからだ。極度の閉鎖性を求めてはいないが、ある程度のリアルな「信頼関係」を築けるといいなと願っている。

日付が変わる前になんとかひとつ説教の原稿を書き終えることができた。明後日の説教の原稿書きは明日集中することにして今日はもう休もう。「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と書いてあるではないか。「おいおい、それは文脈が違う引用だ」と叱られそうだ。

20年もネットを続けながら私はネットに不向きかもしれないとつくづく思うのは、聖書や教会への冒涜的な言葉に接するといまだに目を背けてしまうところだ。聖書の言葉に引っかけたダジャレとかは実はかなり無理。平和主義者という名の事なかれ主義者なので、私の前でやらないでほしいと思うだけだが。

これからダジャレ言います感がしっかりあるのは大丈夫。そういうのでないの。猟奇的な感じの。優しさを感じるのは素直に笑える。なのでダジャレと書いたのはまずかったかも。もっとひどいの。なんでそこまで言えるのみたいな。しかもそういう狭量さを克服したがっている。実は冒涜スルーの宗教なので。