『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)原著(左)、長山道訳(右) |
信仰の確かさを得るために神学を学ぶという動機が一概に間違っているとは言い切れないが、危険かつ有害な面もある。こういう動機で学ぶと、しばしば視点が固定される。しかし、神学の目的は逆である。人はどんなふうにも自由にものを考えられるようになることを学ぶのが神学、とりわけ組織神学である。
私が思い描く「神学」、とくに「組織神学」の理想形は、お察しのとおりファン・ルーラーのそれである。後藤憲正訳や長山道訳などの日本語版がある『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)においてファン・ルーラーが展開しているのは「終末論から出発する神学」という顕著な特徴を持っている。
ファン・ルーラーより前の組織神学は「創造」から「終末」までを時系列の古い順に並べて考えていく構造を持っていた。その順序をファン・ルーラーはひっくり返して論じ、神学界を驚かせた。その影響を受けたのがモルトマンである。モルトマンの『希望の神学』(1964年)も終末論から出発している。
しかしファン・ルーラーは、終末論からだけでなく三位一体論からでも予定論からでも召命論からでもどこからでも組織神学を出発させることは可能であると考えた。これは単なる順序の違いにすぎないことではない。あらゆることを見て聞いて考える際のパースペクティヴとパラダイムに大きな影響を与える。
私なりにたとえて言えば、組織神学はカーナビの「ルート検索」に近い。千葉県柏市から山梨県甲府市までどのルートを通るのが最適なのかを検索する。近いとか速いとかだけでなく、おすすめの観光スポットに立ち寄りながら行くにはどのルートを通ればいいかを真剣に考えるのが組織神学の仕事である。
「組織神学」と「諸学」の関係も自由自在だ。あるいは「予定論」と「美容整形」の関係は何か、あるいは「終末論」と「ドーピング問題」の関係は何かを考える。そのたびに「ルート検索」をして、どの道をどう通れば両者がつながり、相互に自由に行き来できるようになるのかを考えるのが組織神学である。
しかしそれは必ずしも「神学の立場から」あらゆる問題を見つめるというだけにとどまらない。逆コースもある。あらゆる問題の側から「神学」を見つめることも可能である。そのとき「神学」は猛烈な批判にさらされる。そもそも神などいない、そもそも神学は学問でない、などを含めて。心躍るではないか。
「美容整形」や「ドーピング問題」のことを書いたのはモルトマンの最新著『希望の倫理』(原著2010年、日本語版2016年)で取り上げられているからだ。「インターネット」や「コンピューターゲーム」への言及もある。モルトマンの取り上げ方に私は不満だが、組織神学の可能性を示す例ではある。