2017年2月12日日曜日

神が情熱的にあなたを守る(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章31~36節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。この教会の礼拝で説教させていただくのは3回目です。貴重な機会を与えていただき、ありがとうございます。

今日お話ししますのは過去2回の説教の続きです。ローマの信徒への手紙8章26節から36節までを3回に分けてお話しすることを計画しました。第1回(2016年11月13日)が26節から27節まで。第2回(2017年1月8日)が28節から30節まで。そして今日、第3回(2017年2月12日)が31節から36節までです。

過去2回、私の自己紹介が長すぎたきらいがあったことを申し訳なく思っています。自分の宣伝をしたかったのではありません。前回の箇所でパウロが記していたのは、彼自身のキリスト者としての体験です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。これは信仰をもって生きていくすべての人が現実に味わう体験と共通する要素です。

「パウロはこのように書いているが、現実は甘くない」という話をしようと思えばできなくはありません。わたしたちは信仰生活にはもうひとつの側面があることをよく知っています。しかし、「ここに書かれているとおりのことは我々の身に現実に起こります。私にもこういうことがありました」という話をするほうが前向きな話になるのではないかと考えて、自分の話をさせていただいた次第です。

どんなことでもわたしたちの益となる。ポジティヴな要素だけではなく、むしろネガティヴな要素こそが益になる。そのように神が導いてくださっているのだということをわたしたちは知っています。わたしたちはそのような体験を長年の信仰生活の中で味わってきました。

しかし今日はもう繰り返しません。聖書の御言葉に集中いたします。31節以下に描かれているのは、勝利者としてのキリスト者の姿です。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)とパウロは記しています。これは反語表現です。神がわたしたちの味方なのだから、わたしたちは無敵であるということを強調して言っていることです。なぜそのように言えるのかをよく考える必要があります。この点はあとで触れます。とにかくパウロはそのような意味のことを記しています。

32節も同じく反語表現です。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(32節)。最も尊い存在であるたったひとりの御子であるイエスの命さえ惜しまなかった神があらゆるものをわたしたちに与えてくださらないことはありえない、という意味です。

33節も反語表現です。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(33~34節)。

わたしたちを最後に審くのは神であり、神の右に座しておられる御子イエス・キリストなのだから、最後の審判における無罪宣告をわたしたちキリスト者が勝ち取ることは確実であるという意味のことが記されています。

しかし、わたしたちはここでいったん立ち止まる必要があります。そして、もし可能でしたら私が第1回目の説教のときにお話ししたことを思い起こしていただきたいと願っています。そのとき私が申し上げたのは、聖書の神は《弱い神》であるということでした。

「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)と記されていました。この「“霊”」とは聖霊であり、聖霊とはイエス・キリストの霊であるだけでなく、父なる神の霊でもあると申しました。

そして、わたしたちが祈りの言葉さえ失ってしまうほどの悲しみや嘆き、苦しみや弱さの中にあるとき、父・子・聖霊なる神は、弱いわたしたちを大声で怒鳴りつけて強制的に従わせるような強大な権力を行使する存在ではないと申しました。弱いわたしたちに弱く優しく寄り添ってくださり、言葉にならないうめき声を一緒に上げてくださる《弱い神》であると申しました。

そのような《弱い神》がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できるのかと、もしパウロがそのような意味で書いているとすれば、今日の箇所の読み方を変えなくてはならないかもしれないではありませんか。単純に、神は強い方なので弱いわたしたちを助けることができるし、強い味方を得たわたしたちは無敵になるという意味でパウロが書いていないとすれば、どうなるでしょうか。

論理的に考えれば、弱いわたしたちの味方になってくださるのが《弱い神》ならば、わたしたちは勝利するどころか敗北するはずです。しかしパウロは今日の箇所に確かに、勝利者としてのキリスト者を描いています。37節には「勝利」という言葉がはっきり出てきます。

「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(37~39節)。

ここまで読むと分かることがあります。パウロが言う「勝利」とは、わたしたちが常識的に考える「勝利」とは全く違う次元の話ではないかということです。ともかく今ここで分かるのは、パウロにとって「勝利」とは、キリスト・イエスによって示された「神の愛」から引き離されずに、そのうちにとどまっていることを指しているということです。

しかし、その意味での「神の愛」も、話の流れとしては「《弱い神》の愛」を意味せざるをえません。それは理解できない話ではありません。御子イエス・キリストの命をさえ惜しまない父なる神の愛は、自分の大切なひとり子の命さえ守れない弱い愛であるとどうして言えないでしょうか。

自分の子どもが死に晒されても守ろうともしない。なぜでしょうか。殺害されたとき、殺害した人々に抗議も復讐もしない。なぜでしょうか。自分の子どもが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫しているとき、何の助けもせずに黙っている。なぜでしょうか。

そのような神がわたしたちの「味方」になってくれているとして、それのどこが心強いのでしょうか。全く頼りにならないではありませんか。このようなことをパウロが真顔で書いているとしたら、どこかおかしい人だとしか思えないと言う人がいても不思議ではありません。

なぜ神は黙っているのでしょうか。なぜ何もしてくれないのでしょうか。全く不可解です。神など存在しないのでしょうか。そのように考えるほうが、よほどすっきりするかもしれません。

35節の内容にまだ触れていません。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」(36節)。

これもまた「キリストの愛」あるいは「キリストにおける神の愛」との関係が語られているところです。その愛から引き離されないでいることがキリスト者の「勝利」です。しかし、いかなるものも障害にならないという意味で並べられた艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣は、すべてパウロ自身の体験です。「屠られる羊のように見られている」のもパウロ自身の姿です。

これらの苦しみや痛みに堂々と立ち向かい、困難な状況を耐え抜くことができる強靭な肉体と精神がわたしたちキリスト者には与えられているので、強くたくましく生きることができるという意味でしょうか。結論として申し上げたいのは、決してそういう意味ではないということです。

だって、それだと話がおかしいです。わたしたち自身がキリスト者であり、教会です。キリスト者と教会の話は、わたしたちにとって他人事ではありません。最終的に問われているのはわたしたち自身です。自分自身と教会の姿を見つめながら、果たしてわたしたちは、どんなことにも動じない強靭な精神と肉体をもって堂々と力強く立ってきただろうかと考えれば、答えはすぐに出ると思います。

結論としては、そのようなことはいまだかつて一度もなかったし、これからもないということです。わたしたちは弱いままです。日本の教会は小さい群れのままです。神は沈黙したままです。牧師は説教はしますが、神の声が小さすぎてよく聞き取れないので、「たぶんこうだろう」という曖昧な話しかできません。イエス・キリストは十字架につけられたままです。聖霊は言葉にならない小さなうめき声をささやいてるだけです。

これが救いのない話か、これこそが救いなのかは受けとめ方かもしれません。パウロがわたしたちに問いかけているのは、「強さ」とは一体何なのか、「勝利」とは一体何なのかです。そして「神が共にいます」(インマヌエル)とは何を意味するのかです。おそらくそれは世間の常識とは正反対の意味です。「わたしは弱いときにこそ強い」(コリントの信徒への手紙二12章10節)と語られているのと同じ、逆説的な意味での「強さ」です。

常識的な意味での「強さ」は人と人との関係を破壊しがちです。そのことは家庭、教会、社会に当てはまります。なかには制度や建物ばかりが立派で、その頑丈な外枠の内部で多くの人が傷ついているケースもあります。しかし、パウロが教える「強さ」とは「弱さ」です。その強さは、優しく柔らかく人と人を包み込む愛の関係を築くことができます。

私はこれまでいくつかの教会の牧師をしてきました。いろんな教会の礼拝に出席し、かかわってきました。比較するような話はしたくありません。今申し上げられるのは、南花島集会所の皆さまの姿が私の目にはまさに「勝利者」に見えるということです。お世辞ではありません。「神が共にいてくださる」ことがはっきり分かります。神が優しく柔らかく、情熱的にこの教会を愛しておられます。そのことがはっきり分かります。

(2017年2月12日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)

礼拝後 愛餐会