2017年2月4日土曜日

後ろから前へと考える神学の強みと弱点

眼前の事実を全肯定することが実はいちばん難しい
従来ほぼそうだった「創造」から「終末」へ時系列の前から後ろへ考えるタイプの神学が陥りやすい罠は、「あるべき」「すべき」がとかく先行しやすく、現実の結果を重んじるよりも論理的整合性や未来予測のほうが大事で、誰かが悪い結果になったとき「ほら見たことか」と言い出すことではないかと思う。

「ほら見たことか」と言いながらも事態の好転に向けての打開策を一緒に考えようと温かく寄り添う姿勢があるならまだしも、最大でそういう「素振りを見せる」だけで実際には何もしない。「あるべき」「すべき」を遵守実行しないからそうなったのだと、ほぼただ言うだけで、結論も遵守実行せよで終わり。

前から後ろへ、ではなく、後ろから前へ、つまり「終末」から「創造」へという順序で考えることができれば、すべてのベクトルがほぼ従来の発想とは逆向きになっていることを意味するので、「あるべき」「すべき」の視点に立って「できなかった、しなかった」を責める発想から少し解放されるものがある。

それと、「誰かが悪い結果になったとき」と書いたが、それはどういう意味で「悪い結果」なのか、そもそもそれは「悪い結果」なのかは、よくよく考えなければならないことでもあるだろう。今ある現実、眼前の事実を指差して「存在すべきでなかった」「不幸な結果だ」とだれが何の権限で言えるのかと。

今ある現実、眼前の事実をひとまず全肯定することから出発する必要がたぶんある。神学も同じであり、神学こそそれが大事だと思う。神学的論理において徹底的に固められた現実全否定論のようなものがあるとしたら(あると思う)、神の名で全世界と全人類を否定しているようなものなので危険極まりない。

後ろから前へと考える神学とは、今ある現実、眼前の事実をまず全肯定することから出発する神学でもある。そして「前へと考える」は、今の現実の不幸と悲惨の原因は何かを探りに行くことをある意味で指しているが、それをただ嘆き、責めるだけではない。それだと、前から後ろへと考える発想と大差ない。

後ろから前へと考える神学の弱点は、今ある現実、眼前の事実をまず全肯定することから出発する神学であるだけに、具体的な事実の描写から始める必要が生じるが、そういうことをするといろいろ差し障りが出てくるので、なかなか難しいことだ。あちらにこちらに配慮して、結局抽象的なことしか書けない。

「前から後ろへと考える神学」と「後ろから前へと考える神学」の区別と関係を「前者の発想は演繹的(deductive)であり、後者は帰納的(inductive)である」と説明することは、ぴったり一致するわけではないが、ある程度可能だと思う。後者は一種の経験主義的思考であるとは言える。

対外的に差し障りが最も少ないかもしれない例を挙げておく。「私のウェストはなぜこんなに丸いのか」という問いを立てたうえで、ひとまず丸さを全肯定し、そのうえで不幸と悲惨の原因は何かを探りに行くという思考の筋道を通る。理想的なサイズはこうあるべきとだれが何の権限で言えるのかと気色ばむ。