2017年2月4日土曜日

「今さら聞けない」インターネットの使い方

2017年2月4日土曜日17時40分千葉県柏市の自宅(借家)にて撮影
今日(2017年2月4日土曜日)の首都圏は好天だったが、薬局で購入した風邪薬(黄色い箱のベンザブロックSプラス)がよく効いて一日うとうとしていた。ずっとガーネット・クロウさんの曲が流れていることも、たまに眺める窓の外に富士山と東京スカイツリーが見えるのも、いつもと同じ週末だった。

SNSを多くの人が使いはじめて10年に満たないはずだが、私がSNSを始めたのも10年ほど前。うちの子らが当時すでに赤ちゃんでなかったことが幸いだった。赤ちゃんだったら写真をたくさん載せていたかも。でも10年なんてあっという間。「なんで載せたんだ」と10年後の今ごろ激怒されたかも。

皮肉で書くのではないが、会議に排他的権限を持たせる教派・教団の人は、SNSのような場で「会議なき会議」が立ち上がり、そこで意見集約が起こるのはとても厄介なことなので、警戒心を持つに違いない。しかし逆に言えば、会議の権限が不明瞭な教派・教団の人は、SNSを大いに活用すべきだと思う。

もちろん使い方や「友達の作り方」によるだろう。そしてSNSに期待しすぎると、ほぼ必ず裏切られるだろう。もしかしたら失うものも大きいかもしれない。しかし、何もしなければ関係を持つことがありえなかった人々との関係が、SNSによって生まれたことだけは確かである。ゼロがイチ以上になった。

どこかで一方的に教え込まれた知識に基づいて誤解と偏見ばかり持たされていたグループの人々や個人とSNSで知り合い、やりとりしているうちに、それが誤解であり偏見だったことがはっきり分かったことが多々ある。「壁」がSNSでのイザコザから生まれたこともあるが、逆に取り除かれたこともある。

いま書かせていただいたような要素を全く評価しないでただ弊害ばかりを強調して排除し、「教会会議の決定がすべてなのだから、それ以外のいかなる意見集約の場もあってはならない」とするか、それともこういうことに寛容な姿勢を我々がとるかが、教会の将来に与える影響は少なくないだろうと私は思う。

私が20年前にインターネットを始めた「ほぼ唯一の」動機が「地方の教会と都会の教会の情報格差の緩和」にあったことを加えておく。その問題はインターネットなしにはなんら解決していない。私を含めて現時点で首都圏にいる者たちの「警戒心」とは異なる思いをSNSに抱いている人々は大勢おられる。

ネットで「関東人か関西人か」の診断をしてもらったら「関東人」だという結果が出た。「関東甲信越」まで広げれば山梨も入るので「東京6年+山梨5年9か月+千葉12年10か月=」となり、51年2か月の人生(まだ終わってないが)のうちの24年7か月は「こっち」にいた。その正体は岡山県人だ。

もうほとんど他人(ひと)のことは言えない状態になってしまっているのだが、それでも今でも、首都圏の人たちというか東京の人たちが醸し出す(それが私の偏見であり誤解であることをいっそ願う)「地方のことは全く眼中にない感」を見てとるたびに不快に思っている。体は首都圏、心は地方に今もある。