マタイによる福音書9章35~38節
関口 康
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」
皆さんの前でお話しするのは今年度最後となります。
私は一昨年末まで教会の牧師という仕事をしてきました。牧師の仕事がどんなものかといえば、仕事の大半は家の中でします。日曜日やその他の日の説教の原稿を書いたり、いろんな人に手紙を書いたり、教会の書類を書いたりする仕事が多いです。
しかし、家の中で仕事をすることで起こる問題もあります。家族が病気で苦しんでいるとき、その家族をまるで私が無視しているかのように、背中を向けて仕事をしなければならなかったこともありました。反省しなくてはならないことはたくさんあります。
今日の箇所にイエスが登場します。多くの町や村に「会堂」(シナゴーグ)と呼ばれる建物が立っていました。礼拝を中心とする宗教活動を行う場所です。その「会堂」をイエスが訪ねて、聖書のお話をしていました。
「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35節)と書かれていますが、これは昔の話です。現代の医学とは区別しなくてはなりません。イエスの仕事は聖書のお話をすることです。それで人々を慰めたり励ましたりすること、悩みや苦しみを取り除くことをしていました。
「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(35節)とも書かれています。
ここに描かれているのは、イエスから見たユダヤ人の一般庶民の姿です。「弱り果て、打ちひしがれている」人々を見たイエスが、その人々を助けなくてはならないと決心し、自分の弟子を派遣することにしました。
しかしこの箇所を読むと私はどきっとします。「会堂」は宗教施設です。多くの人が集まります。そしてそこには必ず宗教的な指導者がいます。祭司長、律法学者、長老と呼ばれる人々です。「先生」(ラビ)と呼ばれた存在です。
それで分かるのは、各地の「会堂」とその周辺には「先生」がいなかったわけではないということです。「先生」の仕事は「弱り果て、打ちひしがれている」人々を助けることでした。しかし、その「先生」が役に立っていないとイエスには見えたのです。
宗教のことは私も皆さんに話しにくいと思っている面があります。そんなものが何の役に立つのか、何の役にも立っていないではないかと言われると言葉を失います。
先ほど家族の話をしました。私が教会の人々にとって、あるいは地域社会の人々にとってどういう牧師だったかは、自分では分かりません。しかし、家の中では家族に背中を向けて仕事を続ける残酷な人間でした。穴があったら入りたい気持ちです。
イエスは「弱り果て、打ちひしがれた人々」を「憐れまれた」とありますが、「会堂」と「先生」には憤りを覚えたと思います。お前たちは何をやっているのかと。何の役にも立っていないではないかと。
イエスが自分の弟子を派遣する際に命令したことが10章に記されています。その中で大事な教えは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(10章8節)です。この意味は「人助けを私利私欲のためにすべきでない」ということです。
このルールは狭い意味の宗教の仕事に限られるものではありません。どんな仕事であれ、困っている人を助けることをお金儲けの手段にするのは間違っています。それは人の弱みにつけこむことを意味しますので。
しかしそれでは人助けをする人々自身はどうやって生活するのかという疑問が必ず残ります。それについてはイエスが「働く者が食べ物を受けるのは当然である」(10章10節)と言っています。人を助ける仕事をする人は、その人を助けてくれる人々に助けてもらいなさいということです。お互いに助け合う関係を築きなさいということです。
皆さんが最も頭を悩ませているのは進路の問題だと思います。進学先の問題以上に将来の職業の問題でしょう。
ぜひめざしてほしいのは、「弱り果て、打ちひしがれている人々を助ける仕事」です。そしてぜひ家族を大事にしてください。
皆さんの将来を心から応援いたします。
(2017年2月13日、千葉英和高等学校 学校礼拝)