2017年2月4日土曜日

私が千葉に住んでいる理由

千葉県スポーツセンター(千葉市稲毛区)
牧師の移動の仕組みは教派・教団によって違うし、教会外の人は知る由もないことだと思うが、多くの場合、牧師自身の意思表示次第でどうにでもなるわけでなく、教会からの「招聘」があって初めて移動が発生する。私もそうで、かつて山梨にいたのも、千葉に来たのも、教会からの「招聘」があったからだ。

しかも教会から「招聘」があるのは前任牧師の隠退・死去・移動などで空席が発生するからで、それがなければ「招聘」もないので牧師の移動もない。教派・教団によっては上層の人事部で全部を動かす仕組みのところもあるが、各個教会のリクエストに応えきれずミスマッチが起こりやすい欠点があると思う。

しかも日本のプロテスタントの教会で牧師の結婚を禁じているところはなく、家族を持つ牧師は多い。子どもが小さいうちは頻繁に移動できても、義務教育の学齢期に達する頃から高校や大学に進学し卒業するくらいまでは移動が困難になる牧師が多いことも事実だ。単身赴任が可能な経済状態ではありえない。

もちろん牧師という職業(これも職業である)を選んだ以上、世の幸せは捨て去るべきだという話になるのかもしれないが、牧師自身が苦しい立場に立つのは一向に構わないが、そのことと子どもたちが高校や大学などに進学して学ぶ意思を持ちながら親の都合で振り回したり諦めさせたりすることは話が別だ。

繰り返し書けば、山梨にいた私が千葉に来たのは、千葉の教会から「招聘」があったからだ。山梨以前に高知と福岡の教会でも牧師をしたが、高知から福岡への移動も「招聘」があったからだ。「招聘」がなければ、私は今でも高知にいたかもしれないし、福岡にいたかもしれないし、山梨にいたかもしれない。

高知で生まれた長男は過去の引っ越しのすべてに、その後生まれた長女は途中から付き合ってくれた。というか付き合わせてしまった。「招聘」がなければ子どもたちは高知か福岡か山梨で義務教育を受け、地元の高校や大学などに通っていたことだろう。何の遜色もないし、彼らも喜んでそうしたに違いない。

しかし結果的に「招聘」で千葉に来た。松戸市は東京との県境にあることを地図で見てはいたが、実際の生活を始めて初めて東京との近さを実感した。都心までバス電車で1時間で到着できる環境に驚いた。義務教育や学習塾、高校・大学などの競争心の違いを、子どもたちの親の立場で感じるようにもなった。

その結果が良かったのか悪かったのかは分からないし、判断するにはまだ早すぎる。子どもたちはまだ学業の最中だし、親の都合で引きずられてきた面が強く、良いも悪いもなく、否も応もない。ただ、始まった勉強を途中でやめるわけには行かない。彼らはそう思っている様子だ。申し訳ないがよろしく頼む。

いちおう断っておくが、私が牧師の移動のことを書く際に「神の御心によって」や「神の導きによって」という表現を使わないでいるのは、そういう面のことを信じる信仰がないからではなく(そう誤解されるのがいちばんつらい)、牧師の移動という事柄の客観的な「現象」の描写に徹しているつもりである。

ご指摘があったのでさらに加えれば、「牧師の移動」と書いているのも「異動」の誤字ではないつもり。物理的な意味の運動としての「移動」を客観的に描写しているのであって、立場や職務の変更の意味ではない。「移住」と書くほうが意味を明示できるかもしれないが、なんとなく大げさなのでやめておく。