2017年2月18日土曜日

「10年遅れで生きる」生活術

マルセイバターサンド
冷静に自己分析するとしたら、単純に私は「10年遅れ」の人生を歩んでいるようだ。10年前といえば2007年。41歳(遠い目)。もう解散しているガーネット・クロウさんの曲を今ごろ夢中で聴き、ガラケーを愛用し、反応するのはどれもこれも10年前のアニメや映画。10年間何をしてたんだろう。

と書いたあと、いま思い至るのは、10年前ではないが9年前の2008年1月からブログを書き始めたことと、翌2009年からフェイスブックとツイッターを始めたことだ。個人情報保護最重要の時代、ネットには基本ジブンバナシしか書けない。10年前から極度に「自省的人間」になったのではないか。

自分を掘って掘って掘りまくって、もう何も出てこないと思うほどなのに、紙の日記は3日坊主だった私が、ブログもフェイスブックもツイッターもまもなく10年になる。それなんなんだと自分で思う(また自省だ)。そういうことが楽しくなってしまったのではないか。「自分探し」とは言われたくないが。

それ(「自分探し」とは言われたくないので差し当たり「自分堀り」と表記する)ができさえすれば、使う道具が10年前の流行だろうと、なごむ音楽が10年前の流行だろうと、かまわないし、むしろありがたいと無意識に感じているのかも。何言ってるのか理解されないかもしれないが、今の実感はそれだ。

「自分掘り」が好きなわけではない。逃げられるものなら逃げたいが、逃げられないし、自分以外のことを書いた次の瞬間に告訴の時代だ。それと一次文献に密着した研究をしてきたファン・ルーラーのこと以外のことも書けない。他領域のことを言おうものなら、たちまち「専門家がた」から、やいのやいの。

さしずめこんな感じなので、この世界にはまるで、大昔に没したオランダ人ファン・ルーラーと「自分大好きな」(事実に著しく反することを声大で訴えたいが!)私の2人しかいないかのような書きっぷりにならざるをえない。ブログやSNSに他人の実名や写真を載せて書ける人が、羨ましくて仕方がない。

大きく脱線したが、取り急ぎ書きたかったのは、ガーネット・クロウさんを今日もずっと聞いていますということと、ガラケーを愛用していますということと、今初めて書くが、パソコンは自作です、マッなんとかやアイなんとかは触ったこともありませんということ(それはずっと前から書いてるぞ)だけだ。

世の中を変えたいと願っていないわけでなく、変えたいと願っているが、だからといってちょっとやそっと字を書いたり何か言ったりしたくらいで変えられる世ではないと思っているので、だいたいいつも軽佻に書くし、へらへらしゃべる。だから軽く見られるし、軽く見てよいが、なめるなよとも思っている。

それにしても今日の昼パクついた「マルセイバターサンド」は美味しかった。尊敬する先輩牧師によれば「もらってうれしいおみやげダントツ1位」だそうだ。よく分かる。「SNSで見せびらかして羨ましがられるダントツ1位」だと思うもの。狙いすましてアップしているわけだ。悪い人間になったものだ。

そう。私のネット書き込み(ブログ、SNS)には自分とファン・ルーラーと食べものしか基本登場しない。というか意識的に登場「させない」。こうしておけば人々の好奇心の餌食にならないだろう。それでいい、それでいいのだ。草のように生息する。人の目に止まらぬよう。それでいい、それでいいのだ。

(追記)

なんと言えばよいのか、単純な因果律というか、算数的合理性というか、四角四面というか、逆説なしの勧善懲悪というかの中にいるとおぼしき方々の批評がなんともつらい。世の中そんなにシンメトリカルにできていない。パターン認識で誤記を見つけるのは、私も得意というか「見えてしまう」ほうだけど。

誰かから何かを言われて恨んだり落ち込んだりしているわけではない。ネットの世界の話でも職場の話でもない。私個人の話でさえないところがあるし、身近な話でもないところもある。強いて言えば、言葉や論理のやりとりの中で起こりうる現象の話だ。それを見ながら「なんともつらい」と思うことがある。

でも、そういうときに思う。「ひとの批判や批評をするのを我慢できないひとは、ジブンバナシを続けるのが恥ずかしいと思うほどプライドが高いひとなのかもな」と。自分の持って行きどころのないものを自分で処理できず、他人の体を借りる。そういうのはけっこう幼稚な行為ではないかと思わなくもない。

日付が変わる前に思い悩む。「逆説」も単純なシンメトリーでとらえるなら単なる合理性を裏返しているだけではないか。史的イエスの言説と行為はそれなのか。単なる反骨精神、判官びいき、あまのじゃくか。本当にそうか。打ちやすい球でもあえて空振りする。そういうところはないか。ないのか。ねよう。