関口 康
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」
今日も聖書を学びたいと思います。ただ今日は、宗教科の先輩が、チャペルの礼拝の説教でいつもご自分のご家族のお話をなさるので、私も先輩を見習って家族の話をします。
私にはとても美しい妻と、とてもかわいい子どもが2人います。子どもと言っても、2人とも高校を卒業しています。1人は女の子で、もう1人は男の子です。
今日はその男の子の話をします。高知県で生まれました。私が初めて牧師の仕事を始めたのが高知県の教会だったからです。
息子が1歳のとき福岡県に引っ越しました。私が福岡県の教会の牧師になったからです。2歳のとき兵庫県神戸市に引っ越しました。私が神戸の学校に入学したからです。家族寮で生活しました。3歳のとき山梨県に引っ越しました。私が山梨県の教会の牧師になったからです。9歳のとき千葉県松戸市に来ました。私が松戸市の教会の牧師になったからです。それ以降は千葉県民です。
息子が高校生だった頃、ふと聞いてみたくなったことがあって質問しました。「お前は今、教会とか聖書とかキリスト教のことをどう思ってんの」。
家族ですからずっと行動を共にしてきましたが、お互いの距離があまりに近すぎて、そういう質問をしたことがありませんでした。
おやじから唐突に変なことを質問された息子から「どゆ意味?」という返事がかえってきました。それで私は続けました。「いや、だってさ、生まれたときから教会にいて、聖書とかキリスト教とか否応なく押し付けられて、腹立つこととかなかったのかな、と思ってね」。
もう少し続けました。「だって、ほら、お前がこれまで通った学校はキリスト主義じゃなかったし、学校で教えてもらうことと、おやじから聞く聖書の話が矛盾してるとか、そういうことで悩んだこととかなかったのかな、と思ってね」。
返事がありました。「ああ、そういうときもあったよ」。「おれが幼稚園のころ教会でもらった聖書の絵本を読んで、それに書いてあるとおりだと思ってた。だけど小学校に入ってから全部崩壊した。がらがら崩れ去った」。
「そうか。そりゃ悪いことしたな。すまんすまん」と謝りました。そして、また聞きました。「それなら今はどうなの。聖書に書いてあることと、学校で教えてもらうことと、どっちが大事とか、どっちが正しいとか、そういうこと考えることないわけ」。
ほんの少しだけ間がありました。「考える時間くれ」みたいな顔をしました。しかし、さほど待たずに答えがかえってきました。
「どっちも、でいんじゃね」。
その答えを聞いて、私はとても安心しました。
今日、私が皆さんにお話ししたいのも、それと同じことです。今日の礼拝プログラムに書いた私の説教のタイトルは「ハイブリッドのすすめ」ですが、言いたいことは「どっちも、でいんじゃね」です。
礼拝プログラムに載せた説教要旨にうんとややこしいことを書きましたが、詳しい説明はしません。あとで読んでみてください。
今日開いていただいているのは、二千年前のキリスト教伝道者、使徒パウロが書いた手紙の一節です。そのパウロが書いている「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(8節)の「すべて」は、文字通りのすべてです。
それは、聖書に書かれていることのすべて、とか、キリスト教の教会が教えていることのすべて、という意味ではありません。そのような制限がない「すべて」です。百科事典的な「すべて」です。
その「すべて」は、皆さんがこれまで、そしてこれから、学校や社会で勉強してきたし、することのすべてです。キリスト教主義の学校だからといって、キリスト教だけ勉強しているとか、聖書だけ勉強しているということはありません。あらゆる知識、教養、体力、生活力を、わたしたちは学んでいます。もちろん人によって、どれは得意で、どれは苦手ということはあるかもしれません。でも、どれは大事で、どれは大事でないということはありません。
それで今日、私が皆さんにお願いしたいのは、その「すべて」の中に、もしよろしければ「聖書」も加えていただけませんでしょうか、ということです。この学校に「聖書」の授業があります。一方的に押し付ける気持ちは全くありません。
私が皆さんにお願いしたいのは、いろいろとたくさんある中の目立たない隅っこで構わないので、「聖書」のことも考えることができる心のすきまを、ほんの少しだけでいいので空けていただけませんでしょうかということです。
「聖書」が何の役に立つのかを説明するのは難しいことです。今日はひとつだけ言っておきます。また家族の話になって申し訳ありませんが、先ほど紹介した息子の言葉です。「幼稚園のとき読んだ聖書の絵本に書いてあることをそのまま信じていた。でも、小学校に入って、がらがらと崩れ去った」と息子は言いました。
この話には逆のケースがあります。「すべて」の知識が「がらがらと崩れ去る」ときがあります。新しい研究や発見で、ひとつの学説が完全に否定されることがあります。「これが正しい」と多くの人が信じていたことが一瞬で消え去ることがあります。信頼していたことや、それを教えていた人に「裏切られた」と感じるとき、人は完全に絶望することがあります。
そのようなとき、「もうひとつの知識」が頼りになることがあります。「聖書」の教えとはそういうものだと私はとらえています。この世の知識が崩れ去り、ついでに「聖書」の教えまでもが崩れ去ったとき、「神」がわたしたちの心が折れないように、下のほうでしっかり支えてくれています。
いばるわけではありませんが、「聖書」の教えには、いろんな時代を乗り越えて何千年も生き延びてきた実績があります。「すべて」の知識と共に「聖書」の知識を重んじる人は「ハイブリッドな人」になることができると、私は信じています。
皆さんにはぜひ、そのような人になってほしいと願っています。
(2016年10月31日、学校礼拝)