日本プロテスタント教会史の最初期の「横浜バンド」「札幌バンド」「熊本バンド」の各教会の状況は上記のようなものだったはずだ。このようなことを書く私には、長老がたに忍耐を強い続けてきた「少子高齢化時代の教会」における「いつまで経っても若い牧師」を代表してお詫びしたいという思いがある。
会社の株主になることと教会の献金をすることは似ている面があるかもしれないが、もちろん全く違う。「前者は人に、後者は神に」とか言いたいのではない。献金の「献」をどこまで字義通りとらえるかだ。回り回って自分の利益(名誉など)として返ってくるのを腹の底で求めているようで何が「献」金か。
20代で教会の牧師になったばかりの頃、当時60代だったか70代だったかの教会の人(どこの教会かの詮索無用)が、自分より若い人を「ねぎらう」言葉として「私の手足となってよく働いてくださった」と言うのを聞いて、げっそりしたことがある。そういう感覚が入り込むと、教会は早晩壊れるだろう。
私が何度も繰り返し「教会は会社でも学校でもない」と説教で語ってきたのは、理論の帰結ではなく、こういう過去の実際の体験と記憶にすべて結びついている。会社や学校をおとしめる意図で言うのではないが、教会の建物と組織を利用して会社ごっこや学校ごっこをするのはやめてもらいたい。全く別物だ。
このように言うと、会社や学校のあり方のほうを常識だととらえている人々から、教会は非常識だと反発されてきた。会社や学校のあり方のままで教会に来、教会に違和感を覚え、反発を感じたら、教会のほうに近寄ってもらえなくなった。残念だが、そこは譲れない。教会は教会なのだ。他の何ものでもない。
「会社や学校のあり方」と「教会のあり方」とを峻別することは、会社や学校に不利益をもたらさず、かえって利益になると思う。会社も学校も教会ではない、すなわち宗教団体ではない。各組織においてどれほど厳しい上下関係があろうと、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、そうであってはならない。
そして、いま書いた点は教会も同じだし、教会こそが声を大にして言ってきたことだ。教会の中に会社や学校などの組織の中にあるような意味での上下関係はないし、あってはならないし、たとえ形式的に類似する要素があるとしても、その関係は崇拝・信仰の関係ではないし、断じてそうであってはならない。
「献金」の話に戻す。「献」げたのであれば、自分のものではない。引っ張ればいつでも戻ってくるひもをつけて何が「献」金か。見栄張りや恩着せの身ぶりつきで何が「献」金か。回り回っても自分の利益として戻ってはこないが、世界と教会の将来のためにささげるという動機を取り戻すことはできないか。
教会と会社や学校との峻別、そして今書いた意味の「献」金がないかぎり、先に書いた「20代以下の信徒のみで構成され、土地・建物・伝道資金は親教会が負担する伝道所」を生み出すことは夢のまた夢だ。「若い人を教会に」という祈りは正しい。しかし「若い人」は高齢教会員の部下でも舎弟でもない。
高齢教会員を疎んじる意図は皆無である。むしろ正反対である。心から敬意を表し、尊重する思いゆえに書いている。思う存分、同世代の人々との会話を楽しんでいただきたいし、何の気兼ねもなく昔の言語感覚や価値観の中で生きていただきたい。こんなこと言われなくてもすでにしておられるに違いないが。
ただ、ご自分たちのあり方を変えるつもりはないという点については一切お譲りにならないのに「若い人を教会に」とお祈りになることがいかに矛盾しているかということにはぜひお気づきいただきたいと願っている。ご自分たちが敷いたレールの上を「若い人」が走らないのは「若い人」が悪いわけではない。
かつては「外国」(とくにアメリカ)の教会が、1ドル360円の力で日本国内に伝道所を作り、土地・建物・伝道資金をプレゼントしてくれたので「若者の教会」ができた。稼ぎが乏しく、思うように献金できなくても、教会役員として選んでもらえ、若者らしい発想をもって教会運営に積極的に参加できた。
これからは「外国の資金力」ではなく「高齢者の資金力」で「若者の教会」を生み出すしかないだろう。「我々の二軍候補者が教会に来てくれないか」と指をくわえていても、そんなことを願われている時点で、若者は教会に近づかない。手下にされるのを嫌がる。現今の「伝道不振」の最大の原因ではないか。