2016年10月10日月曜日

教義学と説教における論理の役割

本日の首都圏上空(正午)
教義学もまた十全な意味で批判的な学問であると語りうる根拠はある。教義学はキリスト教会の歴史的教義の起源から確立までの全生成過程を批判的に追思考する。手抜き工事や耐震偽装の部位を見破るためにいったんすべてを解体し、部品レベルの再チェックをしたうえで新たに組み立て直す作業を敢行する。

具体的な内容は忘れたがたしか宗教法人関係の手続きに関することだったと思うが、だいぶ前にお世話になった司法書士の方が頼もしかった。提出すべき書類を法務局で受理してもらえるようにするにはどういう論理の組み立てが必要かをきちんと説明してくれた。教義学がこれに似ている。大切なのは論理だ。

説教においても大切なのは本当は論理なのだが、説教における論理はある程度壊れているほうが説教らしい。ツッコミどころがあるほうが興味がわくし、対話が始まる。しかし「自分の説教の論理は壊れている」という説教者の自覚が必要だ。その自覚のためには、論理というものが意識されている必要がある。

「何を言っているのか分からない説教」は、論理が壊れていること自体に原因があるのではない。論理が壊れているということを説教者が自覚していないか、自覚していてもそれ以外の論理を知らないのでメタな視点を併せ持ちつつ軌道修正しながら語ることができないか、そのどちらかではないかと私は思う。

分からないことは「分からない」、知らないことは「知らない」と認め、「このへん私はまだ十分に突き詰めて考えることができていないのできちんと説明できない状態です。分かりにくい話になって申し訳ありませんが現時点でお話しできるところまででお許しください」と断る説教は「よく分かる説教」だ。

教義学のことを書こうとしても、いつの間にやら説教について書いている。こういう私のような書き方が「論理が壊れている」というわけだ。話を分かりやすくしようと自分なりに噛み砕いているうちに横道にそれている。元の線にはもはや戻れない。そういう性分の人間なのだと、あきらめるしかなさそうだ。