2016年10月22日土曜日

追い払われそうになった子どもたちはいつまでも憶えている

いま考えたことだが、イエスのもとに子どもたちを連れて来た人々を叱った弟子たちにイエスが憤ったという記事(マルコ10章13節以下)の子どもたちは、マルコ福音書が書かれた頃(1世紀後半)は高齢者だ。子どもはいつまでも子どものままではない。あのとき追い払われていたらどうなっただろうか。

何の根拠もないので検証できないが、もしイエス死後の教会に、弟子たちに追い払われそうになったがそれをイエスが制し、イエスに抱き上げられ祝福された当時の「子どもたち」が残っていたとしたらどうだろう。その人々の心に「弟子たちに追い払われそうになった」記憶が残っていたとしたらどうだろう。

そういうことをされた幼いころの記憶というのは、いつまでも残っているものだ。「追い払う側」の大人たちは記憶していなくても、「追い払われそうになった側」の子どもたちは、それを忘れはしない。そして、自分たちをかばってくれた大人のこともよく憶えている。抱き上げてくれた手のぬくもりまでも。

いま書いたことは、まだつい先ほど思いついたばかりなので、もう少し練ったり温めたりする必要がありそうだ。そのうち説教の題材として取り上げてみたい気がする。説教のタイトルは何にしよう。「追い払われそうになった子どもたちはそのことをいつまでも憶えている」にしようか。ちょっと長すぎるか。