2016年10月2日日曜日

誰からも支配されたくないので誰をも支配しない

内容とは関係ありません
「妥協」を私はたいてい肯定的な意味で使うので「妥協」ではないのですが、「迎合」はしないつもりで生きてきましたので、その私と同じ線の考えや立場がどのような仕方にせよ大きく取り上げられるときが来たら、それはこの国の「革命」の日だと考えてきましたので、無視や軽視は、ある意味で気楽です。

詳細を明かすことはよしますが、さほど遠くない何代か前の人々が、豊臣さんと徳川さんから「邪宗門」と指定された岡山の日蓮宗不受不施派でして、そこからキリスト教への改宗は「邪宗門」から「邪宗門」への乗り換えの面があったと日本史的に考えられなくもありません。反権力の線の継承ではあります。

しかし、その線は「反権力主義」というようなものではありません。権力に「迎合」することがほとんど全くないので、おそらくは「扱いにくい」と思われて、猛烈に排撃されてしまうだけです。平たく言えば「かわいくない」のでしょう(平たすぎますかね)。そして、事は政治ではなく、あくまで宗教です。

私個人は政治に関心がないわけでなく、大いに関心があるほうですが、政治プロパーで考えることはめったにないし、その能力や土台がないです。常に宗教の立場から政治を見つめ、緊急の場合に限って動いているにすぎません。政治プロパーの人々からは物足りなく感じられるでしょうけど、やむをえません。

ただ、権力にからめとられ、おしつぶされそうかどうかの触覚は比較的敏感なほうだと自覚しています。「(神以外の)」と断りつつではありますが、何ものかに支配されることに耐えられない。「誰からも支配されたくないので誰をも支配しない」。どなたがおっしゃったか、これが私の第二の座右の銘です。