ほぼ同じことを別の言葉で言い換えただけだが、流行りもので宗教を表現する手段を英雄的に行使することが悪いわけがないが、それというのは自分の推しメンを強く推しているだけという面がないとは言えないわけだし、それというのはガチの楽屋落ちだし、きつくいえば「内輪の私物化」と言えなくもない。
ほんの一例、ほんのたとえば、今の高校生は「新世紀エヴァンゲリオンの比喩」を用いても「え、知らない。なんですかそれ。昔のアニメかなあ。何言われているか分からない放送事故」であることを、流行りもので宗教を表現したいと願っておられる宗教アーティストがたはお気づきになっているのだろうか。
「我々は宗教を『今』へと翻訳しえている。我々と比べて古ぼけた教会は淘汰されよ」とまるで勝ち誇ったことを言う人の古ぼけ感がぱねえ。口真似しているだけで中身変わらないなら(流行りもので「我々にきみたちへの敵意などない。ないない」と単に偽装した護教論を展開しているだけなら)意味はない。
息の長いアニメやマンガならいいのでは、という趣旨の意見をいただいたが、ドラえもんやサザエさんやアンパンマンやクレヨンしんちゃんなど、挙げられた例を見て思ったのは、「何十年も人気が続いている」素材はいわば必ず「何十年もアンチの人がいる」という裏面を背負っていたりもするということだ。
「見ていて当然」「知らないと恥ずかしい」と言われるほどの著名度になっていればいるほど、「だったら見ない」「見てたまるか」「同調圧力やめて」という反発を感じる人がおそらく必ずいる。NHKの連ドラも同じ。私は連ドラを見たことがない。「知っていて当然」のように引用されると困ってしまう。
それと、息の長いものを引用するといっても、実際の場面では、直近に放送されたテーマを引用するか、大昔に放送(マンガの場合は雑誌等に掲載)されたテーマを引用するかになるので、前者の場合は「見ていて当然」という同調圧力を感じる人が出てくるし、後者の場合は「知らない」「なにそれ」になる。
また、大規模な自然災害や凶悪事件などは別の扱いかもしれないが、時事問題や社会問題を「引用」する場合も、ある意味で同じことが言える。そもそもそれらは「引用」の対象なのかどうかという点がひとつ。ネタやマクラの扱いをすると当事者や当事者に近い人々から激怒される可能性があるという意味で。
「知っていて当然」「え、なんで知らないの」という態度で語られると「それ同調圧力」と嫌がる人々が出てくるという点が、ふたつめ。みっつめは、それらをとらえる観点や解釈の多様性にどこまで配慮できるか。「聖書的・キリスト教的解釈」を教会の説教に期待するというニードがあったのは、大昔の話。
教会に長年かかわってきた者は、老若男女の「人生プロセス」を「俯瞰」しうる。今の高校生を見ると、彼女/彼らが乳幼児だったころの姿を想像できるし、そのころどういうテレビやマンガを自分の子どもと一緒に見ていたかを思い出せる。「当時のそれ」を今の高校生がリアルタイムで見ていたわけがない。
ちなみに1965年11月生まれの私が初めて自分の目で見た記憶が残っているウルトラシリーズは「セブン」(1967年10月から放送開始。私は1歳11ヶ月)から。私と「セブン」の関係は、今の高校生(1年生は2001年生まれ)にとっての2003年以降のテレビドラマやアニメとの関係になる。
「とっとこハム太郎」は今の高校生が「生まれる前」。リアルタイムで見た記憶が残っているガンダムは「シード」(2002年)以降。ポケモンが低年齢向けかどうかは難しい問題。今の30歳前後の人たちが最初期ポケモン世代。その彼らは今でも「ポケモンのまま」。低年齢向けとか言うとたぶん怒り出す。
ビーロボカブタック(1997年)に出てくるキャプテントンボーグのセリフ「ひとつ、ひいきは絶対せず。ふたつ、不正は見逃さず。みっつ、見事にジャッジする」などはもちろん知らず、「なにそれ」という反応。『聖☆おにいさん』あたりですら今の高校生にとってはおそらく「昔」に属するものの感覚。
私が言いたいのは、流行りもので宗教を表現しようとする宗教アーティストの皆さまへの批判ではない。明らかにネットの影響で、流行りものの消費スピードが加速しているので、追いかけるならどこまでも付き合う必要がありそうだということ。あっという間に現在が過去になり、「なにそれ知らん」になる。