2016年10月27日木曜日

史的絶叫の問題

「見捨てられた」と絶叫した点ばかり強調されると詩22との関係の逆質問でパランスをとりたくなる。世的生殺与奪権者を批判したうえであわよくば自分も生き残ろうとして叶わなかったというある意味「分かりやすい」シナリオでいいかどうか。違うのではないかと言いたくなる。自分に引き寄せ過ぎでは。

少なくともマルコが詩22を知らなかったとは考えにくいので、「史的絶叫」の内容が何かはともかく、マルコが詩22を読者に想起させようとしているとは言えるのでは。その筋の方々の口ぶりを真似ていえば「マルコが詩22を言わせた」。「神なき絶望」でなかったと言いたいからではないか。違うのか。

サンヘドリンを極悪非道な「異常会議」として描くか、そうでなければ、死刑へと追いつめられた側の人の「異常性」を強調して描くか、そのどちらかしかないとは思えない。どう考えればよいかでずっと迷い、今も迷ったままだが、どちらも「普通の人」である中(仲)で起こる狂気が最も恐ろしいとは思う。

「扇動」された「群衆」とは何人くらいだったのだろう。「群衆」といえば何人くらいを指すというような定義があるのか。何か決まった数え方があるのか。俯瞰して数えられたのか、それとも声量の印象か。そもそもだれが数えたのか。実際は数人だったという可能性はないのか。いろいろ疑問がわいてくる。

いずれにせよ思い当たるのは、三位一体をたたえる讃美歌をうたい、祈祷することを必然化するキリスト教的礼拝と、受肉・奇跡・復活等を「狂信」や「心理現象」等の産物へと還元する教説を共存させる困難さは熾烈をきわめるということである。一方で礼拝しながら同時に他方で好き勝手なことは言えない。

史的絶叫を想像(想起は不可能)しつつ、外面的には黙しつつ、内面的に私的絶叫。おどけたことでも言っていないと持ち堪えられないところがないこともない。祭壇上で粉々にされる贖いの小羊の気持ちを合わせて想像(想起は不可能)。「分かりやすい」教説で生きてやると心に誓えればある意味すっきり。