2016年10月23日日曜日

「若者の教会」を生み出すのは終末論的行為である

その意味では(どの意味かの説明省略)「献」金というのは、前世紀神学の流行語を用いて言えば「終末論的な」(エスカトロジカル)行為であると言える。どれほど回っても献げた本人の利益として戻ってくることはないが、世界と教会の「将来」のために献げる。親が子どもたちに投じる教育費に似ている。

違うだろうか。親が子どもに投じる教育費は、将来的に親自身の利益として戻ってくることを期待して投じるものだろうか。微妙な問題はある。子どもの活躍や出世は親の名誉になる面がある。教育費その他でひどい負担を負わせた親への恩返しをしなければ、一生面倒を見なければ、と覚悟する子どももいる。

子どもの活躍や出世が親の名誉になることや、お世話になった親への感謝の思いは尊いものなので、けなされるべきではないし、第三者がえらそうに禁じるようなことではない。ただ、私自身も二児の親である者として自戒してきたのは、子どもの教育費は子どもに対する親の貸しではありえないということだ。

教会の「献」金はどうだろう。「献」げた人自身にとって居心地のよい建物や土地、自分が満足しうる説教や講演や音楽を確保するためなら「献」げるが、そうでないならそうでないという人はたぶんいない。このようなことを問うこと自体ですでに「ばかにしているのか」と反発され、不快に思われるだろう。

しかし、私がいま書いていることの趣旨は、自分自身はまだ見たことがないし、一生見ることができないかもしれないし、たぶん見ることができないであろう「将来」のために自分の資財を投じるという意味での(終末論的な)「献」金がささげられないかぎり、「教会」の「将来」はありえないということだ。

厳しすぎる言い方かもしれないが、今や「少子高齢化時代の教会」であることを自覚しておられるはずの高齢教会員がなんだかいつまでも子どもじみた刹那的な態度や発言をなさるのに接するたびに、「(教会全体の平均年齢との比較において)いつまで経っても若い牧師」は、絶望に近い危機感を覚えるのだ。

しかし、このくらいで止めておく。書きはじめるときりがない。だれか特定の個人の悪口を言っているつもりはないが、そうであるかのような気分になってくる。私の祈りは大それたことではない。ごく小さな望みにすぎない。教会の歴史を途絶えさせないようにしよう。二千年続いてきたからとかは関係ない。