2016年10月30日日曜日

空の鳥をよく見なさい(習志野教会)

マタイによる福音書6章26節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

習志野教会の皆さま、はじめまして。今日は皆さまの大切な礼拝の説教者としてお招きいただき、感謝いたします。

皆さまとお会いするのは初めてですので、短く自己紹介をさせていただきます。今年(2016年4月)から千葉英和高等学校で聖書を教える仕事を始めた日本基督教団教務教師です。東京教区千葉支区のメンバーです。千葉支区だより『しののめ』第36号に、斜め45度の顔写真付きで私の自己紹介文が掲載されていますので、お読みいただけますと幸いです。

『しののめ』に書きましたが、私は東京神学大学大学院の26年前(1990年3月)の卒業生です。日本基督教団の教師を、補教師の時期と合わせて7年しました。その後、兵庫県神戸市にある神戸改革派神学校で1年半学び、その後17年6ヶ月は日本キリスト改革派教会の教師でした。日本基督教団に戻ってきたのは半年前(2016年4月)です。

すべて合わせれば、教会の牧師として働いたのは25年になります。しかし、日本基督教団の中では「新人」ですので、『しののめ』の自己紹介文のタイトルを「新人教師挨拶」としました。

なぜ日本基督教団を離れたのか、なぜ戻ってきたのかと多くの人から何度となく尋ねられるのですが、どなたにもはっきりお応えすることができないままです。意味不明のことをむにゃむにゃ言っているだけです。それでも教団の教師転入試験と面接に合格しましたので、それ以上はご勘弁いただきたく願っています。ただ神の御心、ただ神の導きですとしか表現できません。

さて、そろそろ本題に入ります。初めての習志野教会の礼拝で、どの聖書箇所で説教をさせていただくかで少し迷いましたが、すぐに心が定まりました。先ほど朗読していただいた箇所に決めました。マタイによる福音書6章26節です。

実を言いますと、この箇所は千葉英和高等学校の今年度の「年間主題聖句」なのです。毎週月曜日に全校生徒による学校礼拝を行っています。明日もあります。宗教科職員が当番で説教をしています。明日の説教者は私です。

学校礼拝の中で、この箇所を全校生徒で声に出して読んでいます。この箇所を読みながら高校生が何を考え、何を感じているかは、教室でひとりひとりに尋ねたことがありませんので分かりませんが、みんな真剣に受けとめてくれています。そのように私は信じています。

もちろん私も学校礼拝のたびに読んでいます。書かれていることの意味を考えながら噛みしめています。その箇所を習志野教会の皆さまと共に読ませていただこうと思いました。やや個人的な理由であることをお許しください。

「空の鳥(とり)をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥(とり)を養ってくださる。あなたがたは、鳥(とり)よりも価値あるものではないか。」

今お読みしましたのは、マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉です。しかし、いきなり初対面の皆さんを面倒な話に巻き込んで申し訳ありませんが、ルカによる福音書の12章24節に、これとよく似ている言葉でありながら内容が異なることが書かれているということをお伝えいたします。

「烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏(からす)を養ってくださる。あなたがたは鳥(とり)よりもどれほど価値があることか」。

高等学校の聖書の授業では、このように、マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉とルカによる福音書が伝える言葉が食い違っているといった場合、どちらがよりリアルなイエスの言葉に「近い」と考えることができるかについて、その考え方や理解の仕方を教えています。

極度に専門的な議論を教えることまではしていません。「ここから先は大学で勉強してください」ということで。しかし、聖書の中に違いや矛盾があるという事実は率直に教えています。避けて通ろうとしたり、ごまかそうとしたりすれば、高校生たちは必ず見破ります。毎日が真剣勝負です。

はい、それでは、これから聖書の授業を始めます。レジュメを作ってきましたので配布してください。

[ここをクリックするとレジュメをダウンロードできます]

《新共同訳聖書に基づく比較》

【マタイ 6章26節】       【ルカ12章24節】
・空の鳥(とり)         ・烏(からす)
・よく見なさい         ・考えてみなさい
・倉に納めもしない       ・納屋も倉も持たない
・あなたがたの天の父      ・神
・鳥(とり)を養って        ・烏(からす)を養って
・価値あるものではないか    ・どれほど価値があることか

この比較で分かるのは次のようなことです。ぜひ皆さんもご自分で比較してみてください。

(1)マタイでは「鳥」の種類が《特定されていない》が、ルカでは「烏(からす)」に《特定されている》。「烏(からす)」は、旧約聖書のレビ記11章13~15節では「汚らわしいもの」とされている。

(2)マタイでは「よく見ること」が求められているが、ルカでは「考えること」が求められている。前者は《客観的観察》、後者は《主体的思考》を求めている。「空の鳥」を「よく見ること」のためには《見上げる》必要があるが、「考えること」のためにはその必要はない。

(3)マタイでは「空の鳥」の性質を「倉に納めないこと」としているが、ルカでは「烏(からす)」の性質を「納屋も倉も持たないこと」としている。前者は《自発性の欠如》を、後者は《所有の欠如》を示唆している。

(4)マタイでは「あなたがたの天の父」と呼ばれているが、ルカでは「神」と呼ばれている。前者は《見上げる》存在をイメージさせるのに対し、後者は必ずしもそうではない。

(5)マタイでは「価値あるものではないか」と言われているが、ルカでは「どれほど価値があることか」と言われている。前者は「価値がある」と《断定する調子》が、後者は「価値があるかどうか」の《熟考を求める調子》が感じられる。

マタイとルカのどちらが、よりリアルなイエスの言葉に「近い」と考えることができるでしょうか。細かい議論を省略して結論だけを言えば、ルカによる福音書のほうが「近い」と言えます。

ルカによる福音書が伝えるイエスの言葉の趣旨は次のようなことです。

旧約聖書においては「汚らわしい」とされ、忌み嫌うべき存在とみなされている「烏(からす)」を神は心から愛しておられ、価値ある存在としてくださっている。「烏(からす)」は自分の納屋も倉も所有していないという点で、物質的な貧しさを象徴する存在でもある。

もしそうであるなら、たとえ物質的に貧しいからといって忌み嫌われたり蔑まれたりしてもやむをえないなどと言われなければならない人間がどこにいるのだろうか、いるはずがないではないか。

あなたがたは「自分には価値がない」と自分で思い込んでみたり、そのようなひどいことを他人から言われたりすることがあるかもしれないが、それは事実だろうか、事実であるはずはない。そのことをよく考えてみなさいと、イエスが語ったと考えることができます。

別の言い方をすれば、ルカによる福音書が伝えるイエスの言葉の趣旨は、物質的な貧しさの中にいるという理由で差別や偏見の対象になっている人々への祝福、そして擁護です。逆の視点からいえば、そういう人々を差別したりあざ笑ったりする人々への抗議です。

そしてそれは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカによる福音書6章20~21節)とイエスが語られたことの言い換えです。

物質的な貧しさの中にいることで差別や偏見を受けている人の心が折れないように、いつも傍らにいて支え、慰め、励ますことに尽くされたイエスの姿をより鮮明に想像することができるのは、ルカによる福音書が伝えるイエスの言葉のほうです。

しかし、今申し上げたことを確認したうえで、それではマタイによる福音書が伝えるイエスの言葉のほうには価値がないのかというと、決してそうではありません。マタイによる福音書は聖書の中から切り離して捨ててしまうほうがよいのかといえば、全くそうではありません。両方大事です。伝え方は違いますが、どちらも代々の教会が伝えてきたイエスの言葉です。千葉英和高等学校が今年度の「年間主題聖句」として選んでいるのも、マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉です。

マタイによる福音書が伝えるイエスの言葉の特徴は、「見上げる」ことを求めることにあります。「空の鳥をよく見る」ためには、少なくとも「空を見上げる」必要があります。地面をいくら眺めても、自分の心の中をいくら見つめても、「空の鳥」は見えません。「空」を見上げなければ!

そしてマタイは、「神」を「天の父」と呼ぶことで人々の目線を「天」へと、すなわち「上」へと向けさせようとしています。地面をいくら眺めても、自分の心の中をいくら見つめても、「天の父」は視野に入りません。「天」を見上げなければ!

皆さんはどうでしょうか。鳥(とり)や烏(からす)と比較されて「あいつらより価値があるから、お前は大丈夫だ」と言われても、それで慰められることはあまりないのではないでしょうか。鳥や烏と比べられても困るのではないか。そして、そのような《相対評価》で救われる人は、あまりいないのではないでしょうか。

《相対評価》も大事です。しかし、それより大事なのは《絶対評価》です。人間の評価を決めるのは人間自身ではないし、地上のいかなる存在でもありません。地上に住んでいない「天の父」が我々の価値を決めてくださいます。その意味での《絶対評価》が重要です。

マタイが伝えるイエスの言葉が教えているのは、「人と自分を比較するな。自分で自分を評価するな。あなたの価値は神が決める。神はあなたを必ず高く評価しておられる」ということです。

(2016年10月30日、日本基督教団習志野教会主日礼拝)