ルカによる福音書2章8~14節
関口 康
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
プロテスタントの教会にもいろいろありますが、「ふだんは教会暦のことなど全く無視しているのに、クリスマスとイースターとペンテコステばかり騒ぐのはいかがなものか」という意見が昔から根強くあることを皆さんもご存じだと思います。私もどちらかといえばそちらの影響を強く受けている人間ですので、アドベントになってもクリスマスになってもポカンとしているほうです。皆さんのお考えと違うようでしたらお許しください。
イエス・キリストの降誕の出来事を描いた聖書の箇所は、教会では何度も何度も読まれますので、さすがに聞き飽きたと思われる方が多いと思います。私も過去51年間教会生活をしてきましたので、50回はクリスマス礼拝をささげました。そのたびに同じ聖書の箇所が読まれますのでうんざりするのですが、今年の私はちょっと違います。新しい視点が与えられたという思いでいます。
新しいと言ってもそれほど新しくもないのですが、それは私にとっては新しい、とても新鮮な視点です。まだ先々週の12月2日金曜日に古書として入手して読み始めたばかりの本ですが、ドロテー・ゼレ先生の『神を考える 現代神学入門』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)に書かれていることを読んで与えられた、私にとってはとても新しい視点です。
ゼレ先生は、ドイツで生まれ、アメリカのニューヨーク・ユニオン神学大学で教え、再びドイツに戻って活躍した女性の神学者です。1929年生まれとのことで、私の親とほぼ同世代の方です。そして、2003年に73歳で亡くなられました。
『神を考える』の日本語版の出版は1996年です。ちょうど20年前です。原著ドイツ語版の出版は1990年ですので26年前です。1990年といえば、私が東京神学大学大学院を修了して高知県の日本基督教団の教会の伝道師として仕事を始めた年です。当時の私は24歳で、現在51歳です。その頃のことを思い返すと、懐かしいと言えば懐かしい。しかし、教会と神学の歴史の長さを考えれば、ゼレ先生の神学はまだまだ新しい考え方です。
ゼレ先生の著書の日本語版は『神を考える』以外に、『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)、『働くこと愛すること』(関正勝訳、新教出版社、1988年)『幻なき民は滅びる 今、ドイツ人であることの意味』(山下秋子訳、新教出版社、1990年)などがあります。私が最初に購入したのは『苦しみ』ですが、ずっと前に購入しましたが全く理解できず、放置していました。しかし、やっと理解できるようになりました。ゼレ先生が何を言おうとしているのかが分かるようになりました。
そういうわけで今日は、聖書そっちのけでゼレ先生の本をずっと読んでいたい気持ちですが、そうも行かないと思いますが、今日はゼレ先生の文章を長めに引用することをお許しいただきたく願っています。以下のように記されています。
「一つ聖書の例を引いて、いろいろな神学的伝統における解釈の多様性を明らかにしてみたい。その例として、イエスが処女マリアから生れたという話を考えてみよう。正統主義は、この話を字句通りそのまま解釈する。イエスは処女から生れたのである。この教義的な表明は、アメリカのファンダメンタリストたちからは五つの根本的信条の一つとまでされ、信仰的財産に修正を加えようとする今世紀初めの自由主義的試みに対抗した」(65頁)。
解説の必要があるでしょうか。「正統主義」とか「ファンダメンタリスト」と呼ばれているのは聖書解釈の「保守的な」立場の人々です。「今世紀初め」は今では「前世紀の初め」です。引用を続けます。
「保守的な福音絶対主義の人たちの間では、処女降誕の教えはキリスト教信仰の本質的な構成要素とされ、これがなければ信仰は告白されることができない。この人たちにとって、信仰を決定する意味を持つのは戦争や大量虐殺の手段に対する態度ではなく、恐らく処女降誕の教えであろう」(65~66頁)。
ゼレ先生はこれを皮肉で書いておられるのではありません。全く書いてあるとおりです。「保守的な福音絶対主義の人たち」は、名指しは避けますが、つい最近まで私の身近なところにいましたので、私も肌感覚で分かります。真面目な人々ですが、ぞっとするところを持っています。引用を続けます。
「そこへ自由主義的な批評家がやって来て、聖書を開き、新約聖書の最も重要な記者はこの話を全く知らないか、或いは述べていないということを確認する。マルコはその福音をイエスが既に三十歳のときの受洗から書き始め、子供時代のことについては何も述べていない。マルコにとっては処女マリアに何があったのか、イエスがどのようにして生れたのかは、重要なことではなかった。ヨハネはイエスをずっと神のもとにおき、誕生の話を深く考えてはいない。それはパウロも全く同じである」(66頁)。
これは解説の必要はないでしょう。他の箇所にはっきり書かれていますが、「自由主義的な批評家」というのは、ゼレ先生が卒業したドイツのゲッティンゲン大学神学部や他のドイツの大学の神学者を指しています。引用を続けます。
「諸宗教をそれぞれの文脈において比較する、自由主義神学の副業であるいわゆる宗教史学派の助けを借りて、自由主義神学は処女降誕が古代ではかなり広まっていたモチーフであることを発見した。人々は好んで重要な人物や偉大な英雄が、処女から生れたと言ったのである。この各地で見られるモチーフは、父親が誰であるかはっきりとわかっている人でも、処女から生れたといわれるほど広く語られた。例えばソクラテスの父親も母親も私たちはよく知っているが、彼が死んで四百年のちには、処女降誕が語られた。ソクラテスの神性をより一層明らかに表すことができると考えたからである。したがってこのモチーフはユダヤ教ではなく、ヘレニズムに端を発したものであった。ヘブライの聖書は預言的に『おとめ』について語っている(イザヤ7・14)。そしてこのモチーフがルカの報告となって、教会史の中に入り込んできた。性や女性を敵視する響きは、聖書にはない」(66頁)。
「処女降誕物語」のヘレニズム起源説については、青野太潮先生も近著『最初期キリスト教思想の軌跡』(新教出版社、2013年)に書いておられます。ソクラテスが処女から生れたという話が実在することを知っている方々は、同じような話が聖書の中に紛れ込んできたことを証明できると考えておられます。私も特に異存はありません。しかし、ゼレ先生の意見は、ここから先です。
「私は18歳のときに持ったキリスト教への疑念を思い出すことができる。私が砕くことができなかった石(一番大きなものではなかったが、しかし一つの石であった)の一つが、私には理解できないこの処女降誕であった。なぜこのことを信じなければならないのか、解らなかった。処女から生れたイエスのほうが、父親がいるイエスよりも立派だというのか。それが私の救い、罪と悲しみからの解放に何の役に立つのか、私は理解しなかった。この信仰的財産がヘレニズム的解釈の一つに過ぎず、私がキリスト者であることにとって本質的なことではないということを自由主義神学を通して知ったとき、私がどんなに解放されたと感じたかを、今でもはっきりと覚えている。自由主義のパラダイムは、人間をしばしば信仰の躓きから解放してくれた」(66~67頁)。
しかし、ここでゼレ先生のお話は終わりません。ここから先が最も大事です。
「しかし、ラテン・アメリカの解放の神学では全く違っている。処女降誕のモチーフは不必要なものとされるのではなく、解放闘争の中へと組み込まれている。決定的なことは、解放者は貧しい人々の間でこの世に生れたということである。ラテン・アメリカでは多くの人々が未婚の母から生れ、父親を知らない。保護や援助を当てにすることができないまま、子どもを生む若い女性がいるという状況がごく普通なのである。彼女は困難に陥っており、恐らくエリサベトのような年上の女友達に助言を求めるだろう。彼女は見捨てられ、不貞を罰せられるのではないかと不安に思っている。これらはすべて私たちの社会にもある正常な状況である。この状況は解放の神学では次のように受け入れられている。マリアは私たちのうちの一人であり、彼女は光を、解放者を、救済者を生んだと。彼女に受胎を告げる天使は、『ソレンチナーメの農民の福音書』では、『反体制的』と見られている。『そしてマリアもまた、この知らせを聞くと、すぐに反体制的になる。彼女は地下組織に加わったかのように感じていたのではないかと思う。解放者の誕生は、秘密にされていなければならない』」(67頁)。
どうでしょうか。全く受け入れられないでしょうか。私はとても魅力を感じる解釈です。
「これはこの物語への全く新しい近づき方である。貧しい人たちから、しかも貧しい人々に属する女性という最も貧しい人々の立場から考えているという点で、全く異なっている。このような意味で、処女降誕の話が自由主義のように不必要なものとして批判されるのではなく、正統主義的パラダイムとつながりを持ちつつ、しかし同時に、貧しい人たちから、そして貧しい人たちのためにという新しい解釈の枠組みの中で、新しく解釈されている。そこからは性への敵意と支配ではなく、反体制と抵抗が伝わってくる。自由主義神学にとって処女降誕は、取り去ってしかるべき躓きの石である。解放の神学にとってそれは、一個のパンである」(68頁)。
今日開いていただいた聖書の箇所は処女降誕には直接関係ありませんが、まさに「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」イエス・キリストがお生まれになったことが分かるように記されている箇所です。この最も大切な視点の意味を教えてくれたゼレ先生の著書に感謝しつつ、皆さんにもご紹介したいと願った次第です。
明日(12月12日)は学校礼拝で私が説教します。そこでも私はこのことを話したいと考えています。
イエス・キリストは「貧しい人たちのもとで、貧しい人たちのために」お生まれになりました。イエスの両親も、イエスの誕生を祝いに来た羊飼いたちも、貧困と孤独の中にいた人々でした。イエスが最初に寝かされたのは、家畜小屋の飼い葉桶でした。夜通し働いていた羊飼いたちを明るく照らしたのは、夜空の星と「主の栄光」でした。後者はもしかしたら「マッチ売りの少女」(アンデルセン作)が最期に見た光のようなものかもしれません。
学校礼拝で話そうと思っているのは次のようなことです。「私は貧しくもないし、孤独でもない」と思える人は幸いです。しかし、そうでない人々のことを深く考え、真剣に向き合うことができないような心の持ち主であるなら不幸です。そのことをクリスマスが、そしてイエスがあなたに問いかけています。どういうふうに聞いてもらえるでしょうか。
イエス・キリストは、貧しい人々にとっての最後の光、最後の望みです。「私は貧しくないから関係ない」でしょうか。「私が貧しくなることはありえない」でしょうか。そんなことはないのではないでしょうか。そのようなことを考えながら過ごすアドベントでありたいと願います。
(2016年12月11日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)