2016年11月29日火曜日

聖霊の「注ぎ」についての私見

聖霊について「注ぐ」という語を用いることは、私もするが、慎重な思いを持ち続けている。なぜ「注ぎ」とか「注入」という語を聖霊について用いるのかといえば、ラテン語の神学概念infusio Spiritus sanctiのinfusioを「注入、注ぎ」と訳すことになっているからである。

しかし「注入」はともかく「注ぐ」と耳で聞けば、ほとんどの人は「液体的な物質のようなものを流し込む」というイメージでとらえる。「注入はともかく」と書いたのは、「注入」の場合は「風船に空気を注入する」とは言うので、かろうじて気体のイメージまでは許容範囲のようだと言えそうだからである。

しかし「風船に空気を注ぐ」とは、通常の日本語の感覚では言わないだろう。このようなことを私は考えるので(組織神学専攻者の脳内はだいたいいつもこんな感じだ)、聖霊については「注ぐ」とか「注入する」という言い方を、全く用いないわけではないが、なるべく避けるようにしている。

その代わり「聖霊が人の中に入ってくださり(こちらのほうがinfusio=いわゆる「注入」)、住み込んでくださる(こちらがinhabitatio=いわゆる「内住」)」という言い方を、説教では、するようにしている。神学論文でどう書くかについては、これまた別問題としていつも悩む。

それにしても組織神学者、こと教義学者の中に「我々は世間から顧みられない。流行らない。面白がられない。そもそも学問として認めてもらえない」というようなことをつぶやく人が、昔から多い。19世紀生まれの教義学者バーフィンクもそういうことを書いている。ぶつぶつ言いながら営む学問のようだ。