どうしたら教会が面白くなるかを考えてきたし、これからも考える。同じ志の人と意見交換をしたし、これからもする。そもそも教会が面白くなることはありえないという混ぜ返しに応じたことはないし、これからも応じない。自分だけ面白いとか特定の少数者だけが面白いというのでない教会面白化をめざす。
私がこれまでネット経由で発言してきたことを少しでも覚えてくださっている方には、「どうしたら教会が面白くなるか」について私が抱く関心は「何をもって面白いとするか」であり、その点こそを問題にしてきた人間であることをご理解いただけるだろう。私はそれを「教義学の課題」としてとらえている。
字にすると(あざ)笑われるだけだろうが、私は「教会面白化の神学」の必要性を真剣に訴えたい。高校の倫理の教科書でも教えられているホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」という人間の定義を真剣に考える必要がある。人間の本質が「遊戯」にあるなら、教会の本質に「遊戯」がないはずがない。
「教会とは遊戯である」という意味の「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)がどうして言えないかと繰り返し考えさせられている。そして最終的に「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)を厳密に神学的に語ることが十分可能であると私は考えている。この発想の先駆者がアーノルト・ファン・ルーラーである。
ともかく私は「どうしたら教会が面白くなるか」という問題は「教義学の課題」であるととらえている。それは教会の本質についてのきわめて深刻な神学的問いである。「教会に人を集めるために子どもや若者向けに遊びの要素を取り入れて楽しくする」というハウツーのレベルの問題ではないと認識している。
それと私は、「教団・教派」も「教会」の範疇に含まれるのは当然であると考えている。そのうえで、教団・教派を「面白くなくしているもの」は何かを考えている。人間の集まりなのでドロドロしているのは一向に構わないが、イエスの再解釈を経たモーセの十戒の線くらいは守ろうよくらいのことは考える。
それは「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」だ。互いに敬意を持つ。ばかだアホだ言わない。あやしげな目を使わない(とくにセクハラだめ)。説教盗用も盗み。うそやだましはだめ。ねたみやひがみはたとえ心に浮かんでも軽々に口にしない、おおっぴらにしない、放置しない。
しかし今書いているようなことは、あえて言挙げするまでもないほど当たり前のことだ。常軌を逸した状態になったときだけ緊急発動するが、ふだんは忘れていてもよい。「どうしたら教会が面白くなるか」という問いの中では必ずしも中心課題ではない。ネガティヴなことばかり考えている教会は面白くない。
ただ、「エクレシア・ルーデンス」(遊ぶ教会)にせよ「デウス・ルーデンス」(遊ぶ神)にせよこういうことを言うと激しく拒絶し激怒するのも「教会」であることを私は認識している。「苦難の民の歴史」とも「十字架のイエス」とも矛盾すると感じてしまうようだ。まさにこれが「教義学の課題」である。
教会が「面白いところ」になることを不快に思う人々がいる。教会の中にもいるし、教会の外にもいる。まるで教会が「面白く」なってもらっては困るかのようだ。あくまでも「面白くないところ」であり続けてくれることが望まれているかのようだ。なぜそう思う人々がいるのかを、丁寧に考える必要がある。
そしてこういうことを共同で考えるグループが必要であると私は思う。各教会や「教団・教派」には特性の違いがあるので、たとえば「日本の教会を面白くする会」と言ってもほとんど意味はない。結局ハウツーの問題で終わってしまう。それより、たとえば「日本基督教団を面白くする会」と言うほうがいい。
そういうのが全国の各教会やそれぞれの「教団・教派」の中で立ち上がっていけばいい。「○○教会を面白くする会」や「○○教団を面白くする会」がたくさん生まれてくること自体が面白い。「そもそも教会は面白くないところなので、面白くなることはありえない」という混ぜ返しに応じないことが重要だ。
私が今日こういうことを書いているのは、理想論や空想を言いたいのではなく、具体的な行動を起こすための結党宣言のひな形のようなものを提供したいという意図がある。私もすでに具体的に動いている。同じ志の人々はぜひ行動を起こしてほしい。くれぐれも言うがハウツーの問題で済ましてはならない。
一方の意見だけを言わせ、他方の意見を封じるやり方で人を切り捨てる団体や組織が切り捨てた後にするのは、封じた人物の存在を否定するだけにとどまらず、でっちあげの噂、悪口、罵詈雑言を浴びせることだ。プラマイゼロではなく、挽臼で粉砕するまで徹底的に貶める。そういう団体や組織に気をつけよ。
2016年12月23日
関口 康