2016年12月15日木曜日

ゼレの神学を読むとファン・ルーラーの神学の限界が見える

ドロテー・ゼレの神学に感じる魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係がある。1929年生まれのゼレは1928年生まれのモルトマンやパネンベルクと同世代。1886年生まれのカール・バルトと1908年生まれのファン・ルーラーの年齢差と、ファン・ルーラーとゼレの年齢差が、ほぼ同じ。

バルトとファン・ルーラーの間も、ファン・ルーラーとゼレやモルトマンやパネンベルクの間も、ほぼ20歳ずつ離れている。バルトの世代とゼレの世代は40年差。その中間にファン・ルーラーが立つ。神学原理の問題までを世代論に還元すべきではないが、神学の文脈の違いは世代と無関係ではありえない。

どのようにいえば今書いていることを感覚的にご理解いただけるだろうか。たとえば私は現在51歳。その私をあくまでも仮にであるが「ファン・ルーラー」の位置に置くとしたら、今の70歳さんたちが「バルト」で、今の30歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」という関係になる。

またこれも仮の話、51歳の私を51歳の「バルト」の位置に置くとしたら、今の30歳さんたちが「ファン・ルーラー」で、今の10歳さんたちが「ゼレ」あるいは「モルトマンやパネンベルク」になる。感覚は人それぞれだろうが、50代の人にとって「かわいい」のは30代ではなく10代のほうだろう。

「かわいい」かどうかなどははっきり言えばどうでもいい話だし、定義不能で意味不明だということも分かっているつもりだが、神学も人のすることである以上、人間固有の感覚や感情と無関係でもない。自分がしてきた仕事を受け渡す次世代の相手はだれかを選ぶときなどに、その手のことが作用したりする。

逆の視点はどうだろう。10歳さんから30歳さんと50歳さんが、あるいは30歳さんから50歳さんと70歳さんがどう見えるだろうか。たとえばどちらに「権威」を感じるだろうかとか、どちらに「模範」を見出すだろうかとか、どちらに「魅力」を覚えるだろうかとかを考えてみるとよいかもしれない。

ほぼ最初から脇道にそれていたので、もう戻れそうにない。ゼレの神学に感じている魅力は、私の長年のファン・ルーラー研究と関係ある。ファン・ルーラーがカール・バルトの神学と全面的に対決した(それはナチスに与することを意味しない)第一波だとすれば、ゼレやモルトマンやパネンベルクは第二波。

その闘争においてファン・ルーラーはもっぱら孤軍奮闘だったのに対し、ゼレやモルトマンやパネンベルクはかなり支援者を集めえた世代と言える。偉大な世代の人々が大学や教会の要職を引退する。彼らの功罪の「罪」の面に悩まされ抜いた人々が、新しい偉大な世代となる。中間世代は悩み抜く仕事を負う。

ようやく入手しえたゼレの何冊かの著書の日本語版を見るかぎりファン・ルーラーからの引用は見当たらない。しかしゼレがファン・ルーラーを知らないことはありえない。同世代のモルトマンやパネンベルクはファン・ルーラーを読んだし、引用したし、評価した。そのことをゼレが知らなかったわけがない。

ただゼレはファン・ルーラーに言及しない。もしかしたら興味がない。あるいは反発か無視か。理由は分からない。ただ私にある程度分かるのは、ファン・ルーラーは教会と神学の専門用語(ジャーゴン)にとどまり続けたのに対し、ゼレは教会と神学の外に向かう言葉を用いたことに違いがあるということだ。

ファン・ルーラーの神学の限界は、彼の神学では教会と神学の内部にいる人のことはある程度説得できるとしても、外部に持ち出すことはほとんど全く不可能である点にあると思う。そこがゼレの神学は圧倒的に違う。ゼレの神学は教会と神学の外部にいる人にも必ず届く。その信頼に足りる十分な内容がある。

以上、半分ねながら書いた駄文なので、ご放念いただきたい。