2016年12月17日土曜日

クリスマスを間近にして思うこと

家族それぞれ学校やら職場やらいろいろなので、昨夜はひとり激辛カップ麺「蒙古タンメン中本」で空腹を満たす。年末まであとひとふんばり。うちの人たちも似たような状況なのだろう。基本がリア充なので週末に不意にぼっちにされると軽く落ち込む。ボッティチェリ。とか書いているうちに、ぼっち終了。

一夜明けて「睡眠の質」という検索語で最初に出てきた記事を読む。睡眠の質を悪化させる原因に「仕事や心配事を考える」とある。「明後日説教しなければ」と悩みながら休む金曜の夜は睡眠の質が下がる。「明後日説教しないでいい」ときの金曜の夜は質が上がる。それを今朝実感した。すっきりさわやか。

数日前から「しゃべる目覚まし時計」というフリーソフトを利用させていただいている。これはいい。スリープ状態のPCを自動的に立ち上げてくれて、ロボ声やおっさん声で「朝ですよ!起きてください!」と大騒ぎしてくれるので起きざるをえない。しかし今朝は目覚ましなしだった。だって土曜日だもの。

初めて明かすが、ちょうど1年前の今日(2015年12月17日木曜日)立ち寄った「サイゼリヤ高田馬場南店」は当時の「日本基督教団東京教区事務所」の斜向かいにあった(現在は後者が移転)。サイゼリヤのランチでしっかり腹ごしらえしてから私の教師転入願に関する東京教区三役との面接に臨んだ。

書斎のベランダから見える快晴の富士山の今日(2016年12月17日土曜日)。昨年のクリスマスイヴ(2015年12月24日木曜日)に今の借家に引っ越したばかりのころ毎日のように写真を撮っていたのがもはや懐かしい。来週の土曜日か。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べたのは。

西洋起源の哲学や宗教を考える場合、紛らわしい日本語は西洋の言葉に戻して考える必要があろう。カルヴァン的な意味の「予定」はpredestinationだが、ライプニッツ的な意味の「予定調和」はpre-established harmonyなので、同じ「予定」でも意味も内容も全く違う。

書いても仕方がないことだが、何度も書いてしまう。外国から伝来した宗教を教える者の外国経験が人生51年で20日なのは、まあ仕方ない。いつまでもうさんくささがつきまとうのはそのせいかもしれないが、ごめんなさいと謝るしかない。地味に生きる道が、少なくとも私にはふさわしいと自覚している。

わしは今日もリア充じゃ。お昼はもんげーうめーナポリタンじゃった。妻が作ってくれたし、みんな揃っとったけーな。朝ほど富士山は見えんよ―になってしもーたけど、天気はえーし、気持ちえーが。明日は教会どけー行こーか。アドベントじゃしな。遠くの教会に行っちゃろか。そういう気分じゃが。なー。

(訳)私は今日も人生の幸せを味わっている。昼食は愛妻の絶品ナポリタンを家族みんなで堪能した。遠景の富士山は昼過ぎにはかすみに隠れてしまったが、大空は雲ひとつなく爽快だ。明日はどこの教会のアドベント礼拝に出席させていただこう。久しぶりに遠くまで車を走らせるとするか。そういう気分だ。

もとからクリスマス騒がない系だが、ますますそうなった感あり、ブキミなほど静かだ。教派や教会の系統の話ではなく個人的な話。偉い先生が書いておられたが、キリスト誕生の祝いはキリストにプレゼントする日ではあっても、我々がプレゼントをもらう日ではないだろうと幼いころから信じてきたくちだ。

前世紀「最大の神学者」と称された人に対して個人的に批判的な立場だが、その人が「サロン的教会」を「ブルジョア的」などと批判していたのは胸がすいた。クリスマス騒ぐ系の教会さんはこれからもその線でがんばられたらいいと思うが、個人的には今年からそういうのなくなったので正直ほっとしている。

教会こそ毎年毎年飽きもせずキリストは飼い葉桶に寝かされた飼い葉桶に寝かされたと説教し続けているのに、教会こそぬくぬくとクリスマスにこそごちそうを頬張るというのは結局なじめなかった。キリストはそうだったが我々は違っていいという論法も耳にしたが、得心はしなかった。主張もしなかったが。

まあもうでも、どうでもいい。昨年のクリスマスイヴを経て、この日に新しい意味が個人的に与えられた。だれも巻き込んでいない。小さな記念日となった。「どういう意味があるのか」と尋ねられたら、少しかっこつけてこう応えることにしよう。「これは過越だ!解放の祝いだ!」と。だれも文句は言えまい。