字にすると身も蓋も無くなる気がするし、自分も同じだった(今も)ので、考えると心が痛くなるが、理系はともかく文系の研究者は金も職もないところから「無からの創造」をする感じになると思う。でも、自分で研究会つくって、自ら代表名乗って「立派する」(派閥の領袖になる)のが文系学問の王道かも。
よく知らない分野に首突っ込んだこと書くのをお許しいただきたいが、たとえばの話、夏目漱石研究やりましたな方々はたぶんすごくたくさんおられてライバルも多そうだけど、「だれそれ知らん」と言われる作家の研究なら研究会なくて寂しいけどライバルは少ないないしいない。すきま狙えるチャンスあり。
でも、ここから先のことはいま書いたことの逆面かもしれないが、その「だれそれ知らん」さんがあまりにも歴史にからまない珍奇すぎる存在だと、もしかしたらかえってマイナスのような気もする。歴史の主役につかみかかったけど敗北したが、そのとき主役に致命傷を与えた人みたいなのだと評価高いかも。
あとは、哲学や神学ならはっきり言えるが、プラトン「を」研究する、ヘーゲル「を」研究する、だけでなく、プラトンやヘーゲル「になる」的な。彼らの視点から世界や人間を見てみる。追思考(Nachdenken)することを経て、それでは見えないし分からないことがあるのに気づき、修正を加える。
プラトンやヘーゲル「を」研究することと、プラトンやヘーゲル「になる」のとではどちらが容易いか。私は前者のほうが容易いと思う。彼らのテキストはすでに存在するわけだから。そして前者なしに後者は成り立たない関係にもある。だから先に前者に取り組む。しかし、それをするのは後者に至るためだ。
とまあ、こんな感じのことをジンメルが『哲学の根本問題』の冒頭でえんえんと書いていたなあと今思い出す。そのことを忘れていたくらいジンメル「になっていた」書きっぷりだったわけだ。夏目さんでも芥川さんでも同じことが言えるのではないか。彼ら「を」研究するのは彼ら「になる」ためではないか。
聖書を読むことだって結局そうなので。聖書を読む人は結局いつかはイエス「になったり」パウロ「になったり」する。不遜なことを言っていると思わないほうがいい。「お前は水の上を歩けるのか」とか茶々入れされても無視。イエスにしろパウロにしろ、聖書の読者は彼らに憑依される。のりうつられる。
読書というのはそういうものだろう。映画やテレビなどはもっとそうだろう。最近の映画やテレビを観ていないので分からないが、ひと昔前「さてはこの人、昨日のテレビを観てたな」と分かる物腰や口ぶりになっている人に気づいたことがある。キムタク「になったり」織田裕二「になったり」している人に。
まあしかし、私がいつもつい書いてしまうのは、王道とはこういうものだろうということなので、いま困っている人、いま焦っている人には、何の答えにも解決にもならないことばかりだ。だから、がっかりされる。がっかりされることを苦にしない人間なので、なんともない。へへえだ。あっかんべー。笑。