2016年12月12日月曜日

新しい時代の到来(千葉英和高等学校)

ルカによる福音書2章8~12節

関口 康

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

今日の説教に「新しい時代の到来」というタイトルを付けたのは、「アドベント」という言葉の意味が「到来」だからです。「待つ」という意味はありません。「待つ」ではなく「来る」です。救い主イエス・キリストの誕生は「新しい時代の到来」を意味する。それが「アドベント」の意味です。

私の妻は保育士です。子どもたちが小さい頃は子育てに専念していました。息子が中学校に入学し、娘が小学校の高学年になったときから保育士の仕事を始めました。ちょうど10年前です。

保育士の仕事にもいろいろあります。現在は発達障がいを持つ子どもたちの施設で働いています。その前は児童養護施設で働いていました。複雑な事情の子どもたちの世話をしています。

しかし、妻の仕事の具体的な内容については、私は何も知りません。いろんな仕事に当てはまることでもありますが、妻の仕事には「守秘義務」があります。仕事上知りえたことを第三者に漏らしてはなりません。それは夫婦であっても親子であっても同じです。

学校の先生も同じです。学校の先生にも「守秘義務」があります。私も家でもどこでも学校のことは何も話しません。ですから、私と妻が家にいるときは、お互いにずっと黙っていることが多いです。それでいいのです。そういう仕事なのですから。

こういう話をするのは、皆さんの将来の進路選択や職業選択の参考にしてほしいという願いがあるからです。直接的な意味で保育士になってほしいという意味ではありません。私が言いたいのは、日本の中にも、小さいときから親子の関係や自分自身の体や心のことで激しく悩み苦しんでいる子どもたちがたくさんいるということを知らずにいないでほしいということです。そして、もし可能なら、そのような子どもを何らかの仕方で助ける仕事をぜひ目指してほしいということです。

先々週の礼拝にお招きした日本国際飢餓対策機構の方の話には、心を激しく揺さぶられました。飢餓で命を失う子どもたちが日本国内に大勢いるとは言えないでしょう。しかし、日本には問題がないということはありえません。人に言えない事情も多くあるのですが、だからこそ人知れず多くの子どもたちが小さいときから激しく苦しみ悩んでいます。

その中には皆さんと同世代の子どもたちがいます。皆さんの弟さんや妹さんの世代、あるいはもっと小さな子どもたちもいます。その子たちのことを他人事だと思わないでほしいです。きつい言い方になりますが、「そういう家庭環境に生まれてしまった子どもたちは、はい残念でした。でも、ぼくは、私は、ラッキーでした」というような考え方は捨ててほしいです。

「ノブリス・オブリージュ」というフランス語の言葉を皆さんはご存じでしょうか。英語でいえば「ノーブル・オブリゲーション」です。日本語には訳しにくい言葉ですが、その意味は「恵まれた人こそが社会的に果たすべき義務が重い」ということです。税金の額だけの問題ではありません。もし皆さんが「ぼくは、私は、ラッキーでした」と思うなら、そのような人こそが、そのようなことを考えることすらできない苦しい立場にいる人々のことを助けることについて大きな義務を負うべきです。

進路選択や職業選択について私が何か言うと、それは押し付けだ、指図するな、個人の自由だとお叱りを受けることがありますので、このことも慎重に言わなければなりません。押し付けるつもりも指図するつもりも全くありません。ただお願いしたいだけです。

今月初めに行われた学校のクリスマス祝会の「ページェント」(キリスト降誕劇)は本当に素晴らしかったです。感動しました。私は昨年までは在校生の保護者として毎年参加していましたので、4年連続で観させていただきました。どの年の作品も素晴らしかったですが、年々パワーアップしていると思います。

しかし忘れてはならないのは、ページェントが教えてくれたのは「最初の」クリスマス、つまりイエス・キリストの誕生の日の出来事は、本校のページェントの盛大さとは全く正反対と言えるほど寂しいものだったということです。

ヘロデを上手に演じてくれた名役者を悪者にする意図はありません。しかしイエスが生まれたのは裕福で贅沢なヘロデの側ではありません。正反対です。「こんな服で、こんな身なりで救い主に会いに行ってもいいのだろうか」と悩む羊飼いたちに涙が出ました。人の心の叫びが聞こえました。

しかしまた、そのような人々のもとでこそ、そのような人々のためにこそ救い主がお生まれになったのだと天使が教えてくれました。そうであることのしるし、その証拠は、幼子イエスが家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていることであると教えてくれました。

その幼子イエスの姿は、裕福と贅沢のまさに正反対です。裕福と贅沢が悪いと言っているのではありません。しかし、世界には、そして今の日本にも、そうでない人が大勢いるし、多くの子どもたちが苦しんでいるということを深く考え、真剣に向き合うことなしに自分の裕福と贅沢だけを追い求めようとするならば悪いです。いいわけがないではありませんか。

そのことをクリスマスが、そして幼子イエスが、今日あなたに問いかけています。そのことを覚えて過ごすクリスマスでありたいと願います。

(2016年12月12日、千葉英和高等学校 学校礼拝)