2016年12月1日木曜日

聖霊の「注ぎ」についての私見の続き

日本語訳の聖書で聖霊について「注ぐ」という言葉が何度も使われているのはそれ以外に訳しようがない原語が用いられているからだと思うので、私も「注ぐ」を用いないわけではないということは繰り返し申し上げている。私の関心は、聞く人の耳にどう聞こえるか、読む人の目にどう読めるかということだ。

「注ぐ」というとどうしても聖霊は水や油のような液体なのかと連想させるものが出てきてしまうがそれでよいかが気になる。また「注ぐ」というとどうしても聖霊それじたいの主体性よりも「聖霊」以外のだれかが「注ぐ」という行為を行うことをイメージさせてしまうものが出てきてしまうがそれでよいか。

「父なる神が、イエス・キリストにおいて、聖霊を」という文脈でなら「注ぐ」でよいとも思うが、聖霊もまた(相対的に)自立した主体性をもつ存在であると考えるなら、聖霊おんみずからがご自分のほうから人間存在の内部に潜り込んでくださることをイメージできる訳語のほうがよいのではないかと思う。

たとえば、テトスへの手紙3章6節のギリシア語には「注ぐ」や「流す」という意味以外に「授ける」という意味がある。「授ける」ならまだましである。「注ぎ」も「満たし」もそれ自体は意志をもたない非人格的な物質のイメージに通じるものがある。三位一体をもっとまじめに考えなくてはだめだと思う。

うまく表現する自信はないが、私がもうひとつ気になるのは、「注ぐ」という言葉につきまとう(と私には感じられる)、注ぐ主体と注がれる客体との関係が、前者にとっての後者が「従属的な」関係であるように感じることである。これを言うのも、三位一体がまじめに考えられていない気がするからである。

「注ぐ」と言うではないかとご指摘いただいた「愛情」にしても、「視線」にしても、「力」にしても、注ぐ主体から発せられる客体ではあると思うが、しかしそれは、それ自体が(相対的に)自立した人格的主体性を持っているものではなくて、あくまでも、注ぐ主体の人格的主体性に従属するものであろう。

父なる神と聖霊の関係やキリストと聖霊の関係はそういうものだろうか。「注ぐ」より「出る」に近いのではないか。「親から子どもが生まれる」や「出る」はありだが、「親から子どもが注がれる」とは言わない。御父と聖霊の関係は親子ではないが、異なるペルソナをもつ両者を言うなら「注ぐ」はまずい。

「聖書解釈から教義が生まれた」という歴史的順序はそのとおりだが、その教義に「教会の聖書解釈」は拘束されている。三位一体の教義に「聖書」は拘束されていないかもしれないが、「教会の聖書解釈」は拘束されている。この話題の出発点は、私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたことからだった。

私が説教で「聖霊をもつ」という語を用いたのに対して、「聖霊」には「注ぐ」と言うほうがいいのではないかというご指摘を受けた。私に問われているのは「教会の聖書解釈」だった。その返答として私は「聖霊」について「注ぐ」という表現を使うのは意図的に避けていると言い、その理由を説明した次第。

聖霊について「注入、注ぎ」(infusio)という語を用いることにプロテスタンティズムは批判的だったと、ティリッヒが『組織神学』第3巻(私の東神大の学部4年の卒業論文のテーマだった)に書いているのを読んだことが、私がこの問題を考えはじめたそもそものきっかけだったことを思い出した。

なぜプロテスタンティズムがそうなのかといえば、ティリッヒによると、「注ぎ、注入」(infusio)という語には「魔術的・物質主義的こじつけ」(magic-materialistic perversion)があるからだそうだ(ティリッヒ『組織神学』第3巻、英語版では115ページ)。

しかし、ティリッヒが言っているから、とか、プロテスタンティズムがどうだから、とか、三位一体が、とか私が言うのは、私が「聖霊」に「注ぎ」という語を用いることを意図的に避けていることの理由ないし自己弁護を言っているだけであって、自分の立場や考えが絶対に正しいと言いたい思いは全くない。

パウロが三位一体を考えていたかどうかという問いかけは、イエスはキリスト教の創始者だったか、とか、カントがドイツ観念論の哲学者だったか、という問いに似ている。ちなみに、イエスはキリスト教の創始者であり、カントはドイツ観念論の哲学者だったというのは高校の倫理の教科書の言い方である。

11月27日日曜日の説教で私は「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4章6節)は、御子だけの霊ではなく、御子の霊を送った御父の霊でもあるので「御父と御子の霊」としての「聖霊」だと述べた。

パウロの時代に「三位一体」(trinity)という用語は存在しなかった。それはそのとおりである。しかし「御父と御子の霊」としての「聖霊」は前二者と同格のペルソナを持っているという理解は少なくとも西方教会の伝統を受け継ぐ「教会」、そしてもっと多くの「教会」の聖書解釈の基本線である。

その基本線に私も拘束されている。その意味は、「父・子・聖霊なる三位一体の神」を”信奉”する日本基督教団信仰告白の”影響下”にある教団の教師である私は拘束されている、というくらいかもしれない。いま書いた一文に2回使用したダブルクオーテーションはやや皮肉である。大真面目の皮肉である。