本日(2016年12月2日金曜日)ゼレさんの『神を考える』(三鼓秋子訳、新教出版社、1996年)を古書で入手。ずいぶん前に買った『苦しみ』(西山健路訳、新教出版社、1975年)に続くやっと2冊めの蔵書。まだまだ。今年の流行語大賞に「ゼレってる」でエントリーしよう。今年はもう終わったか。ゼレ研ぜひいつか。
ゼレさん素晴らしい。じんじん響く。
「テキスト・文脈・神の民は、組織神学の最も基本的な概念である。組織神学はこれら三つの要素すべてを顧慮しなければならず、どれか一つが他のものより優位であると言うことはできない。文字と伝統をいわば不動のものとして繰り返すだけで、このテキストが現在の文脈の中で言おうとしていることを明確に発言しない神学は、神の民に対して担っている課題を果たしていない。信仰の主体である神の民に関連する、テキストと文脈の間の対話がなければならないのである。」
(『神を考える』15ページ)
これも素晴らしい。ずばりそのとおり。
「正統主義は自らの文化的な制約に対して、独特の蒙昧さを持っている。結婚、子どもの教育、労働の倫理に関する正統主義の理解は、これらを美化して批判しない。その結果、ドイツ・キリスト者に対して向けられたバルメン宣言が、今日、新正統主義と保守主義が混じり合う中で、次のように解釈される可能性がある。
教会の側からの政治的な参加は、どんなものであれ非難されなければならない。イエス・キリストはこの世のあらゆる体制を超えて立っている。彼に与するということは、この世の戦いには関わらないことを意味する。キリスト者であることは、政治的な問題に実際に関わることから一定の距離を置くことである。キリストは神の唯一の言葉であるから、すべての体制は―それが社会主義であろうと資本主義であろうと―キリストと同一視されることはできない。イエス・キリストはすべてを超えている。教会はこの世から距離を置き、いわゆる『終末論的条件』を守らなければならない。バルメン宣言の第二の命題が『この世の神なき束縛からの喜ばしい解放』を告げているなら、この告白の保守的な解釈は、バルメンの歴史的文脈から明らかな幾つかの束縛だけではなく、この世の束縛すべてがそれ自体神なきものであると仮定する。文脈の欠如が神学の原則へと高められてゆく。その他の保守派の人たちは、新正統主義のキリスト中心主義を、エキュメニカル運動の解釈学的アプローチと『世界が教会の議題を決定する』という主張に反対するために利用したのである。」
(『神を考える』27~28ページ)
全15章中の最初の1章と2章を読了。40ページ進む。これほど興奮しながら読める、得心が行く組織神学は久しぶりだ。目が疲れてきたのでこれにて。