2015年5月26日火曜日

コスパ教育

聖書と改革派教義学を哲学と現代神学が塞いでいる(まずい)
自慢するのをお許しいただきたい。親の私ががーがーがーがー口うるさく言い続けたせいで(ごめんよ)、うちの大学生男子も高校生女子も、あらゆることのコスパを考える人間になった。目標のクオリティは決して落とさず、そこに至る最良・最短・最安コースを選択し、着実に攻略する。ありがたいことだ。

しかし、今書いたことは誤解されたくないと思っている。見下げられたくもない。「目標のクオリティは決して落とさず」に強調がある。「そこに至る最良・最短・最安コース」についても最大の強調は「最良」にある。それは単純な話ではない。複雑で微妙なニュアンスを含めてうるさく言ってきたつもりだ。

あくまでもたとえだが、愚痴を聞いてもらえる優しい店長や元気な高校生バイトの子たちが頑張っている徒歩5分のコンビニの商品と、自動車でしか辿り着けない郊外型の量販店の商品を比べて、後者が2円から100円安いとする。私は迷わず前者を選ぶ。そんな値段の比較自体が時間の無駄なので、しない。

想像の要素を含んだ言い方で申し訳ないが、最近は、歩いていける範囲にコンビニ一つ見当たらない町が増えているのではないだろうか。しかし、我々はいつまでも自分で車を運転できると思わないほうがいい。いつか老いる。自分の力では何もできなくなる。長い目で見れば、最寄りのコンビニはありがたい。

お店の話だけではない。学校も病院も、可能であれば職場も(そして教会もとカッコつけてそっと書く)みな同じことが言える。近ければいいわけではないし、安ければいいわけでもない。ただ「最良」でなければならない。「目標のクオリティ」そのものは一切譲ってはならない。そこを譲ると一生後悔する。

それはもちろん、自分の価値観でよいし、そうでなければならない。他人だ世間だの評判だ平均だ統計だに振り回されてはならない。親の意見にも振り回されるなと、親の私が口うるさく言い続けてきた自己矛盾。まあ、それはともかくとして。簡単に言えば、どうぞご自由に生きてくださいという話ではある。

うるさく言い続けはしたが、私には責任はない。「親の意見に振り回されるな」と、さんざん言ってきたのだから。もう知りません(笑)。