2015年5月24日日曜日

教会の時代 ペンテコステ礼拝

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
使徒言行録2・1~13

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信仰深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざけるものもいた。」

今日はペンテコステ礼拝です。「ペンテコステ」という言葉は何度聞いても耳慣れないものがあります。意味を説明すべきかもしれませんが、これは固有名詞であると考えてください。毎年ペンテコステという日がやってくる。その日に教会に行くとペンテコステ礼拝がある。そういうことだと覚えてください。

「ペンテコステ」という言葉の意味は、重要ではありません。それが分かったからといって「ペンテコステ礼拝」の意義が分かるわけではありません。重要なのは「ペンテコステ礼拝」を行う意義です。ごく大雑把に言えば、今日はキリスト教会の設立記念日です。それが「ペンテコステ礼拝」を行う意義です。

5月24日がそうだという意味ではありません。日付は毎年変わります。なぜ毎年変わるのかも説明すべきかもしれませんが、それも割愛します。日付もあまり重要ではないからです。しかし、乱暴に言い過ぎることは控えます。日付に関して大切なことが、ひとつあります。それは、イースターとの関係です。

今年のイースターは4月5日でした。どうしたことでしょうか、今年から突然、日本中で「イースター、イースター」と大騒ぎでした。大騒ぎの波に乗って教会にたくさん人が来てくださればよかったのですが、残念ながら、そういうふうにはなりませんでした。いえ別に、文句を言いたいわけではありません。

そして今日が5月24日。4月5日から7週間後です。一週間が7日。7週かける7日は49日。たす1日で50日。つまりイースターから50日目がペンテコステです。これは毎年同じです。イースターの日付も毎年変わりますが、イースターの50日後に必ずペンテコステが来るという関係は変わりません。

毎年変わらないのはイースターから50日目にペンテコステが来ることです。イースターとペンテコステのこの関係が重要です。しかし、50日であるのは歴史の事実に基づいているだけです。50日でなければならないわけではありません。重要なのは、イースターの後にペンテコステが来るという順序です。

イースターは、十字架にかかって死んだイエスさまが復活されたことを記念する日です。しかし、復活されたイエスさまのお姿を目撃したのは、イエスさまの弟子たちだけでした。そのときの彼らのことをわたしたちは「教会」とは呼びません。イエスさまの復活の50日後に「教会」が初めて誕生したのです。

しかし、使徒言行録(1:3)によれば、復活されたイエスさまが弟子たちの前に姿を現されたのは「40日」だったと記されています。「50日」ではありません。50日後のペンテコステには教会が誕生します。しかし、教会が誕生する10日前にイエスさまの姿が弟子たちの目にも見えなくなったのです。

その10日間は弟子たちにとって不安な日々だったでしょう。イエスさまは彼らの心の拠り所だったからです。その彼らにとって、目に見えるイエスさまがいてくださるのと、目に見えないイエスさまを信じることとでは、どちらが安心でしょうか。それは目に見えるお姿のほうが安心であるに決まっています。

わたしたちも大切な家族や友人の死に立ち会ってきました。その方々は今も神と共に生きておられるとわたしたちは信じていますが、その方々の姿をわたしたちの目で見ることはできません。悲しみや寂しさがあります。このわたしたちと同じことが、イエスさまと弟子たちとの関係の中にもあったと言えます。

しかし、その彼らのもとに新しく心の拠り所となるご存在が来てくださいました。そのご存在を聖書は「聖霊」と呼びます。教会は「聖霊」を神であると信じています。聖霊は神です。その聖霊なる神が、弟子たちのもとに来てくださいました。それが今日お読みしました聖書の個所に描かれている出来事です。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(1~2節)。「五旬祭」がペンテコステです。「一同」とはイエスさまの弟子たちです。彼らは集会中でした。そのとき彼らに不思議な出来事が起こりました。

「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(3~4節)。書いてあるとおりのことが起こったとすれば、まさに不思議な出来事です。オカルト的怪奇現象だとしか言いようがありません。

しかし、わたしたちがある程度考えてよいことは、聖書もまた、文学的な表現を用いて書かれているということです。たとえば、現代の自然科学の観点から聖書を読んで、このようなことはありえないなどと言って完全に退けてしまうのは、聖書の読み方としてふさわしくないし、間違っているとさえ言えます。

そして、この個所に登場するのは「炎のような舌」です。それが「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と書かれています。弟子たち自身の「舌」は彼らの口の中にあります。しかしこのとき起こったのは、彼ら自身の「舌」ではなく、別の「舌」が現れ、それが彼らにとどまったということです。

そして、その「舌」が彼らに「とどまった」とは、頭の上にくっついたわけではなく、彼らの体の中、口の中に入り込んだことを意味します。つまり、弟子たちは「二つの舌」を持つに至ったのです。しかし、そのように言いますと語弊が出てきそうです。「二枚舌」といえば悪い意味しかありえないからです。

しかし、彼らに与えられたのは「炎のような舌」でした。すると「聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。「ほかの国々の言葉」だけ読むと、彼らに与えられたのは外国語をしゃべれる能力のようなものかと考えたくなりますが、そういう話だけではないと思われます。

なぜなら、イエスさまの弟子たちの仕事は、聖書に基づいて神の言葉を説教することだからです。神の言葉を全世界にあまねく宣べ伝えることが、彼らの仕事であり、使命です。そのことを考えれば、「炎のような舌」を与えられ彼らが「ほかの国々の言葉で話しだした」ことの意味は、おのずから分かります。

その意味はこうです。その日以来弟子たちは、燃えるような熱心さで、国境や言語の違いを越えた全世界に向かって、神の言葉を宣べ伝えるようになったということです。それ以外の意味は考えられません。それが今からおよそ二千年前の「五旬祭の日」(これが「ペンテコステ」です)に起こった出来事です。

その日をわたしたちは「教会」が誕生した記念日として覚えてきました。わたしたちが今日何を記念しているのかといえば、イエスさまの弟子たちが全世界に熱心に神の言葉を宣べ伝えるようになったことを記念しているのです。それが彼らにできるようになったのは、「炎のような舌」が与えられたからです。

そして、この「炎のような舌」こそが「聖霊」であると考えることが可能です。そして「聖霊」は端的に神です。つまり、このとき彼らに起こったのは、ただ単に外国語をしゃべれる能力が与えられたということだけで終わる話ではありえません。彼らの中に端的に「神」が宿ってくださったことを意味します。

しかしそれは、彼らが神になったということではありません。人間は神にはなりません。人間は人間です。しかし彼らは、人間のままで神の言葉を語るようになったのです。そのために、別の「舌」が与えられました。それは、生まれつきの人間には決して語りえない「神の言葉」を語れるようになるためです。

それは二枚舌ではありませんと、先ほどから申しています。しかしそれは「悪い意味ではない」と言いたいだけです。もしかしたら本当に、ある意味で二枚舌かもしれません。なぜなら、代々の教会が宣べ伝えてきた、そして今のわたしたちが宣べ伝えている神の言葉は、人間の思いとは異なるものだからです。

そのことはわたしたちが聖書を読むたびに感じることです。聖書の言葉が人間の思いとかけ離れていると感じることは多いです。どこを読んでも必ず共感できるわけではなく、むしろ反発を感じたり、葛藤を覚えたりすることのほうが多いのが聖書です。聖書には人間の思い通りのことが書かれていないのです。

しかし、それでいいのです。神はわたしたちの手下ではありません。立場は逆です。人間のほうこそ神のしもべになるべきです。人間の願いや野心がすべて人間の思いどおりに実現するなら、人間はモンスターです。人間には罪があるからです。この世界は、人間の思いどおりになどならないほうがいいのです。

わたしたちは、自分の罪を悔い改め、神に従うべきです。そのことを教会は、これまで宣べ伝えてきたように、これからも、世の終わりまで宣べ伝えて行かなくてはなりません。しかし、そのためには、人間の思いのままを語る舌とは異なるもう一つの「舌」、すなわち、神の言葉を語る「舌」が必要なのです。

(2015年5月24日、松戸小金原教会ペンテコステ記念礼拝)