2015年5月28日木曜日

閉口箇所

教会で「世間」は学べます
学業のみ卒えて牧師になる者たちは「世間を知らない人たち」だと、教会の中で、たいていの場合ネガティヴに評価する向きがある。言わんとすることが分からないわけではないが、困惑は相当ある。私の話ではない。会議のような場所で一般論としてこういうことを平然と述べる人がいるので、閉口してきた。

そういう評価が教会に根強くあることを熟知する牧師志願者の中に、なかばその批判をかわすためのエクスキューズ目的で「何年か」回り道して、牧師になる人がいると思う。それが悪いわけではない。でも、気にはなる。「教会の外」を指す「世間」というのは、そんな「何年か」ごときで分かるものなのか。

学校もそうだ。高卒で神学部に入学し、卒業してすぐ牧師になれば、なるほど「つぶし」はきかない。このご時世、別の仕事をしながらでないと牧師を続けるのが難しいことも事実。その事情を熟知する人が「何年か」回り道する。だけど、そんな「何年か」ごときの副専攻できく「つぶし」が足しになるのか。

他人の生き方をとやかく言いたいわけではない。ただ、教会の中でも十分すぎるほど「世間」は学べるのだが、とは言いたい。他のどこよりタテ社会だったり、他のどこより手に負えない修羅場だったりする場合があるし、他のどこより慎重さを要する場合もある。それに、情報源に事欠くことは今はもうない。

しかし、そういうことよりもっと気になるのはやはり、そんな「何年か」ごときのエクスキューズ回り道で分かるような「世間」なのかという問題のほうだ。「何十年か」の人もいるだろうが、人生には年限がある。はっきり言うと語弊が出るが、「残り数年」で分かるような「教会」なのかと言いたくもなる。

「なめてる」「なめてない」というような低次元の話にはしたくない。言いたいことは、ひとつだけだ。教会で「世間」は十分学べる。神学部「しか」出ていないとか、牧師「しか」したことないとか、自分で言ったり人に言われたりするのは自由だが、現実はそんなに単純ではないのだが、と言いたいだけだ。