『ユトレヒト大学神学部400年史』(2001年)※拙文とは無関係です |
なぜそう思うのかといえば、やはり何と言っても「日本基督教団」の存在との関係だ。創立1941年(あえて元号を使えばS16)に日本基督教団が生まれた。つまり今年で創立74周年。教団創立の経緯は多くの人がさまざまな角度から論じておられるので、今は問わない。私が言いたいこととは無関係だ。
私が言いたいことは、それほど先でもない頃に日本基督教団が創立80周年(2021年)を迎えようとしていることと関係がある。ポイントは「80」という数字だ。「80かける2」が「160」。日本基督教団の創立「80」周年と、日本プロテスタント宣教「160」周年。これが意味することは何か。
数字合わせの占いのような話をしたいのではない。日本プロテスタント宣教「160」周年は、日本基督教団創立以前の約「80」年間の旧教派によって設立された教会と、教団「創立以後」の約「80」年間に教団内部に設立された教会が、ある意味でやっと「対等」の関係になる時ではないかと思えるのだ。
「何が対等なものか。旧教派時代から続く教会のほうが歴史が長いわけだから、教団創立後に設立されたような若い教会とは比較にならない」という意見があるかもしれない。しかし、《若い教会》と呼ばれ続けた「純粋に日本基督教団生まれの教会」の中に創立80周年をまもなく迎える教会がそろそろある。
「時間」というのは万人に対等に与えられた実に公平な神の賜物だ。「旧教派生まれの教団教会であること」と「純粋に日本基督教団生まれの教団教会であること」とで差を主張できなくなるのは、時間の長さにおいて対等になるときではないかと私は思う。「80×2=160」。そのときがまもなく訪れる。
教団という仕組みをやめて旧教派に戻るなら、話は全く別になる。しかし、そういう展開はもうないだろうと私には見える。旧教派生まれであるというアイデンティティよりも日本基督教団に所属し続けているというアイデンティティのほうが意義深いことであるという認識がほぼ確立されているように見える。
今は日本基督教団のメンバーですらない者が突然何を言い出したのかと訝しがられるかもしれないが、今しているのはダイレクトな意味で日本基督教団そのものの話ではなく、日本プロテスタント宣教史の話である。その中に日本基督教団の存在に言及する必然性があるだけなので、どうかお許しいただきたい。
しかし、とくに結論があって書き始めたことではないので、この話題を書き続けることはできそうにない。言いたかったことは本当に単純。日本プロテスタント宣教史の新しいエポックは、数年前に迎えた「150周年」よりも、まもなく迎える「160周年」からこそ始まるのではないだろうかということだ。