2015年5月20日水曜日

反省しきり

先週(5月15日)久しぶりにお訪ねしました
仕事柄なのかなんなのか、牧師たちの中に自己反省が強めの人は多いが、「それ反省されても困るんだけど」と感じることがある。具体的なことは割愛するが、牧師の存在理由にかかわる自問といえばピンと来るだろうか。同じ仕事の人は昔も今も溢れるほどいる。牧師の存在理由なんか今さら問わないでくれ。

あと牧師の露悪や自虐。いいけど。私もやるけど。自分について自慢げなのもどうかと思うが。痛々しさを見せることを狙っているところもあるのだろうけど。私もやるから気持ちは分かるけど。でも、露悪や自虐をする人に限って「そうだ、あなたの存在は悪くて恥ずかしい」と指摘されると激怒したりする。

私は基本が優等生なので(どこがだ)「言えない、できない」と思っていることが、実はたくさんある。牧師と教会の批判ができない。愛情表現の範囲内のことは言えても、それ以上は言えない。それには私なりの明確な理由がある。その理由には旧約聖書的背景がある。といえば、すぐ分かる方は多いだろう。

「旧約聖書的背景」とは、サウルについてダビデが言った「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」(サムエル記上24:7)という言葉だ。私が牧師と教会に「甘い」のは、ひとえにこれが理由だ。

サムエル記上24:7の説明をしはじめると長くなるのでやめておくが、この個所の事柄と、牧師と教会に対して「甘い」私の態度とを結びつけることが拡大解釈であるとは思わない。私は善意に満ちあふれているようなタイプの人間ではないが、「主が油を注がれた方に手をかけること」は心理的に不可能だ。

でも、はっきり言っておく。私が牧師と教会に「甘い」のは黙っているだけだ。黙っていられる状況であれば10年でも20年でも黙ったままでいる。でも、気づいていないわけではない。顔で笑って心で泣いているだけだ。我慢強いわけではない。「主が油を注がれた方に手をかけること」ができないだけだ。

もちろん同じことを私に対して考えている方がおられるだろう。私のことを笑顔で黙って何年でも我慢しておられる方々は少なくないだろう。そのことを分かろうともしないで、私だけが我慢しているなどと勘違いしてはいないつもりだ。だから私は、大体いつも逃げ口上として「お互いさまですよね」と言う。

逃げ場も救いもないような話にだんだんなってきた気がするので、そろそろやめる。最後に思い出話をひとつ。

2001年8月に某青年会修養会で講演の機会を得た。第一講演終了後(全部で講演は三つ)の質疑応答のとき、一人の牧師(私より少し年上の人)に青年たちの前で激怒されたことを忘れられない。

どの部分が逆鱗にふれたのかは分からない。私の想像では、次の部分ではないかと思う。以下、講演録から自己引用。

「わたしはなぜ、牧師をしているのだろうか」。このような自分の職業上のアイデンティティにかかわる問題は、その職業に就く「前に」片付けておかなければならなかったはずです。しかし、いつまで経ってもその答えを出すことができない「憂うつな牧師」が増えています。そんなふらちな牧師にイラだち、キレる信徒が増えてくるかもしれません。いえいえ、そのようなことは間違いなく現在進行中の事柄なのです。

要らぬことを言ってしまったようだ。申し訳ない。反省しきり。