明日はペンテコステ礼拝です |
対抗意識がないと言うとうそになるが、日本のカール・バルト研究は80年を超え、豊富な蓄積があるが、日本のファン・ルーラー研究は20年に満たない。私より若い有力な日本人研究者がオランダから帰国してくださったので日本のファン・ルーラー研究は風前の灯だとは思わないが、多勢に無勢ではある。
私にとってファン・ルーラーの神学は読むたびに心躍り、勇気づけられるものではあるのだが、「どこが面白いのか」と改めて尋ねられると答えに窮するものがある。彼は特段に新しいことを言ったわけではない。彼は改革派教会の牧師だった。改革派教会を二分する諸問題の「調停案」を出し続けた人だった。
その意味ではファン・ルーラーは「教会の内政」を扱う神学者だったと言えるので、そもそも教会の現実を知らない人が彼の本を読んでもちんぷんかんぷんだろうし、彼の本が「伝道文書」になりうるかと考えれば、答えは否である。彼の神学は教会の内部で苦しんでいる人だけに理解できるものかもしれない。
しかも、ファン・ルーラーの神学の本質は「調停案」だったと私は思う。教会を二分する問題に対してどちらか一方に立つというより両者の和解や再統合に道を開こうとする。見方によっては旗幟鮮明であることの反対に見える。対立する両者の和解を求める人は、両者から愛されることなく、むしろ嫌われる。
それでも社会における教会の存在が巨大だったり影響力が大きかったりすれば「調停案の神学」にも一定の意義を認めてもらえる可能性がある。しかし日本の教会の現実に、それは全く当てはまらない。教会を二分する問題のどちらか一方に立つ、旗幟鮮明でセンセーショナルな神学のほうがよく売れるだろう。
ファン・ルーラー自身がそのことを自覚していた。1908年に生まれ、1970年に62歳で亡くなった。私の神学は21世紀になれば認められるだろうと言っていたと伝えられている。オランダ国内に限って言えば彼の予想は当たったと言える。しかし日本では21世紀になってもまだ認められそうにない。
「調停案の神学は要りませんか」と言いながら、マッチ売りの少女のように売り歩きたい。そんなことを考えながら過ごした週末の午後であった。やれやれ困った、明日はペンテコステの礼拝なのに。いやむしろ、これこそ明日を迎えるにふさわしい思いかもしれない。「教会は要りませんか」と売り歩きたい。