2015年5月13日水曜日

フィリピの信徒への手紙の学び 07


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フィリピの信徒への手紙2・14~18

関口 康

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)。これは直接的にはフィリピの教会の人々に言われていることですが、同時にすべてのキリスト者に言われていることです。確認しておきたいのは「何事も」の内容です。その意味は、イエス・キリストを信じる人々が、教会の中で、または教会を通して行うすべてのことです。明らかに「教会の奉仕」について語られていることです。「教会」を抜きにして言われていることではありません。

わたしたちは、教会の奉仕をするときには「不平や理屈を言わずに行う」ことが大切です。しかし、このように言いますと軍隊式教育を思い起こす方がおられるかもしれません。上司の前で不平や理屈を言えば暴力で制裁される。理不尽なことでも、おかみの命令には無条件で従わなくてはならない。パウロはそのような意味で言っているわけではありません。

そういう意味ではないことの根拠があります。ここでパウロが用いている「不平」という言葉には旧約聖書的背景があります。出エジプト記の出来事です。イスラエルの民が奴隷状態に置かれていたエジプトの地からモーセと共に脱出し、カナンを目指して砂漠の旅を始めました。エジプトから脱出することは、彼ら自身が願っていたことでした。ところが旅の途中、彼らは繰り返し「不平」を言いました。まともな食べ物がない、水がない、つらい思いをするくらいならエジプトにとどまっていたほうがましだった。このような不平を彼らはモーセに言いました。しかし、彼らが不平を吐きだしたかった本当の相手は、神御自身でした。

この意味での「不平」をあなたがたは言うべきではないとパウロはフィリピの教会の人々に言っていると考えることができます。パウロが用いている「不平」を意味するギリシア語は、出エジプト記に用いられている「不平」を意味するヘブライ語の翻訳です。教会の奉仕において問題になる「不平」は本質的に言えばこの意味です。すなわち、神に対する不平です。

神はわたしたちを罪と悪の支配の中から救い出してくださいました。神はわたしたちの救い主です。わたしたちは、神に救われた者として教会に集められています。救われた者たちは、その救いの事実を喜ぶべきであり、感謝すべきです。しかし、肯定的な思いを抱くことができるのは、おそらく最初だけです。そのうち不平を言います。教会もまた人間の集まりであった。ここにも人間の醜さや過ちがあふれている。神に救われたことを喜びたい、感謝したいと願ってはいる。しかし、教会の現実を知れば知るほど、ちっとも喜ぶことができず、感謝することができない。「神さま、私はあなたの救いを求めて教会に来ましたが、教会がわたしを躓かせます。どうして私はこんな嫌な目に遭わねばならないのですか」。これこそが、パウロが言うところの「不平」の内容です。

パウロは、教会の中のそのような問題を知らずに、あるいは知っていても目をふさいで、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と書いているのではありません。彼はそのようなことは百も承知です。すべての事情を知り抜いています。

それどころかパウロの目から見ると、教会の現実は、不平を言いたくなるようなことばかりでした。あれこれ理屈をつけて教会から逃げ出したがっている人々がいることも分かっていました。しかし、だからこそ、パウロが勧めていることは、そのような教会の現実を、勇気をもって引き受けなさいということです。不平や理屈は、言いだせばきりがありません。その言葉をあなたのその口の中に飲み込んでしまいなさい。教会の中の人間に対する不平や理屈ではなく、このわたしを救ってくださった神への感謝と喜びを語りなさい。そのようにして教会の奉仕に熱心に取り組みなさい。

「そうすれば」と続く次の文章に「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15~16節a)。これも個人的な事柄としてとらえてしまうと、パウロの意図が分からなくなります。「とがめられるところのない清い者」になることが求められているのは教会です。「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保つ」ことを求められているのも教会です。一人一人の心の中に不平や理屈があることはある意味で仕方がないことです。しかし、そのような思いが心の中にあることと、それを口に出して言うことは別のことです。

「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことを求められているのは、教会です。教会の輝きは建物の輝きではありません。人間の輝きであり、一人一人の笑顔の輝きです。罪の暗黒から救い出され、絶望の淵から救い出され、神への感謝と喜びに満たされた、このわたしの輝きです。パウロの願いは、フィリピの教会がそのような輝きを放つ教会として立ち続け、保たれ続けることに他なりません。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」(16節b)。フィリピ教会がそのような教会であり続けることができるとき、パウロの人生に「誇り」が与えられるというのです。

教会に不穏な空気があるとき、それを一掃する秘訣ないし鍵は、礼拝です。教会活動の中心は礼拝です。そして礼拝の中心は神の御言葉です。聖書朗読であり、説教であり、神への賛美です。わたしたちが教会の中であるいは教会を通して行うすべての奉仕は礼拝という軸、そして礼拝の中心である聖書朗読と説教と神賛美という軸の周りを回っているのです。

それが意味することは明らかです。もし教会の雰囲気がたとえどんなにおかしくなったとしても、すべての教会の奉仕の中心である礼拝へと、礼拝の中心である神の御言葉へと、教会のみんなが集中することができるならば、良い雰囲気を再び取り戻すことができ、明るく輝く教会を取り戻すことができるのです。教会の中で争いや対立が起こるときには、教会のど真ん中に聖書をどんと開くのです。そして聖書の周りにみんなで集まり、神の御言葉に聞くという仕方で、問題解決の道を探っていくのです。そういうことができるのが教会なのです。

17節にパウロが書いていることは一つの重大な決意です。ただし、用いられている表現には、明らかに象徴的な意味が込められています。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」(17節)。「あなたがた」とは教会です。教会が「信仰に基づいていけにえを献げる」とは、ユダヤ教的な意味での動物犠牲を献げることではありません。わたしたちの場合は「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」(ローマ12・1)が神礼拝の本質です。ユダヤ教の場合、彼らの安息日である土曜日に神殿または会堂に動物犠牲を携えていきます。わたしたちの場合は、キリスト教安息日である日曜日に、わたしたち自身が自分の体をたずさえて出席するのです。

その礼拝にパウロの「血」が注がれるとは、もう少し肯定的に言いなおすことができるでしょう。その意味は、パウロは神を礼拝するために生きているということです。わたしの命は、わたしの流す血は、礼拝において神の前に注がれるためにあるということです。それがわたしの人生の目標であり、その目標が達成できるのだから、神の前に自分の命がいけにえとして献げられることをわたしは喜ぶと、パウロは語っているのです。彼の人生は礼拝のために、礼拝は彼の人生のためにありました。

(2015年5月13日、松戸小金原教会祈祷会)