「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました。
ファン・ルーラーが母校フローニンゲン大学で、
『ホモ・ルーデンス』のヨハン・ホイジンガ教授から(たぶん直接)「遊び」(spel)の概念を教えられ、
それを神学の中に持ち込もうとしたんです。
それをモルトマンやボーレンが、ファン・ルーラーから受け継いだ面があると、ぼくは見ています。
ぼく自身は、ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という言葉を著書や論文で多用するのを、
最初は面白がっていました。
しかし、それが「遊びの神学」だ「喜びの神学」だ、
それがファン・ルーラー神学の特質だ、みたいな取り上げられ方になっていくのが、
だんだん嫌になってきました。
そんなふうにファン・ルーラーをイロモノ扱いして、結局はファン・ルーラーを軽蔑している
そういう人たちの心の中身が透けて見えるような気がして、つまらなくなりました。
あとは、日本語の語感だけの話かもしれませんが、
「真剣に遊ぶ」とか「一生懸命遊ぶ」というのは、ありだとは思いますけど、
「真剣に」とか「一生懸命」とか言った時点で、
プレイしている本人自身は、心理的には「遊んで」ないですよね、日本人は。
「遊ぶこと」と「真剣であること」が対立・矛盾しているかのような言語体系の中に、
やっぱりぼくらは生きているような気がする。
あるいは、「遊んで暮らす」という言葉に代表されるように、
「遊ぶこと」は賃金労働に従事していない状態(だけ)を意味している場面も少なくない。
ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)も読みました。
「遊び」という訳語が悪いのか、別の言葉で訳せば問題は解決するのかは分かりませんが、
「遊び」を軽蔑する人たち独特の冷たい視線というか、鼻で笑うあの感覚は、
笑われている側にははっきり分かります。
だから、「自分は笑われている」と、いったん看取した人は、過剰防衛を始めることにもなる。
ぼくだけの感覚かどうかは分かりませんが、
日本人が「遊び」を軽蔑してきた姿をよくあらわしているような気がするのは、
ほら、あれですよ、
映画「火垂るの墓」の清太と節子が、親戚のおばさんから言われたキッツイ言葉。
「お国のために働いてる人らの弁当と 一日中ブラブラしとるあんたらと なんでおんなじや思うの」というセリフ。
「一日中ブラブラしとるあんたら」というあのおばさんのセリフに、全くギクッとしなかった牧師がいるでしょうか。