2013年8月9日金曜日

「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました

「遊び」の問題は、考えれば考えるほど、ぼくは分からなくなりました。

ファン・ルーラーが母校フローニンゲン大学で、

『ホモ・ルーデンス』のヨハン・ホイジンガ教授から(たぶん直接)「遊び」(spel)の概念を教えられ、

それを神学の中に持ち込もうとしたんです。

それをモルトマンやボーレンが、ファン・ルーラーから受け継いだ面があると、ぼくは見ています。

ぼく自身は、ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という言葉を著書や論文で多用するのを、

最初は面白がっていました。

しかし、それが「遊びの神学」だ「喜びの神学」だ、

それがファン・ルーラー神学の特質だ、みたいな取り上げられ方になっていくのが、

だんだん嫌になってきました。

そんなふうにファン・ルーラーをイロモノ扱いして、結局はファン・ルーラーを軽蔑している

そういう人たちの心の中身が透けて見えるような気がして、つまらなくなりました。

あとは、日本語の語感だけの話かもしれませんが、

「真剣に遊ぶ」とか「一生懸命遊ぶ」というのは、ありだとは思いますけど、

「真剣に」とか「一生懸命」とか言った時点で、

プレイしている本人自身は、心理的には「遊んで」ないですよね、日本人は。

「遊ぶこと」と「真剣であること」が対立・矛盾しているかのような言語体系の中に、

やっぱりぼくらは生きているような気がする。

あるいは、「遊んで暮らす」という言葉に代表されるように、

「遊ぶこと」は賃金労働に従事していない状態(だけ)を意味している場面も少なくない。

ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)も読みました。

「遊び」という訳語が悪いのか、別の言葉で訳せば問題は解決するのかは分かりませんが、

「遊び」を軽蔑する人たち独特の冷たい視線というか、鼻で笑うあの感覚は、

笑われている側にははっきり分かります。

だから、「自分は笑われている」と、いったん看取した人は、過剰防衛を始めることにもなる。

ぼくだけの感覚かどうかは分かりませんが、

日本人が「遊び」を軽蔑してきた姿をよくあらわしているような気がするのは、

ほら、あれですよ、

映画「火垂るの墓」の清太と節子が、親戚のおばさんから言われたキッツイ言葉。

「お国のために働いてる人らの弁当と 一日中ブラブラしとるあんたらと なんでおんなじや思うの」というセリフ。

「一日中ブラブラしとるあんたら」というあのおばさんのセリフに、全くギクッとしなかった牧師がいるでしょうか。