「信教の自由」を”信じて”いるとか「民主主義の原則」を”信じて”いるわけではなくて、
「神」を”信じて”いるわけですけど、
近代以降の民主化というか個人主義化というかは歴史の不可逆進行だと思うので、
いま「教会」に「権威ある真理」を求められても、「そりゃ無理だ」と答えざるをえません。
いま書いている意味の「権威ある真理」とは、
「キリスト者とはこうあるべき」ということを
全キリスト教会が異存なく納得できる言説と行動の規範のようなもの
を想定しているつもりです。
「教会」が「権威ある真理」なるものを語ろうものなら、バカを見るような目で見られる時代に
(ていうか、そういうことができると思っている時点で相当バカだし)
何が悲しくて、そういうことを言っているふりができる「教養ある教会」があるのよと、ぼくは思う。
それでも「教会」が
そういう何か(「権威ある真理」なるものの断片)を必死で守ろうと努力していても、
教会に与えられていると言われる「鍵の権能」なるものがメタメタに壊れていて、
完全に出入り自由な、セキュリティゼロの状態になっているわけで、守るべきものを守れない。
どうしようもないですよ。
「鍵の務め」ないし「鍵の権能」については、
ハイデルベルク信仰問答の第82問の答えに書かれている言葉の意味で用いています。
「民主主義」の中で「教会」という建物と組織を乗っ取るのは簡単ですよ。
多数でおしかけて、聖書の話より自分の身の上話で盛り上がって、
気に入らないことがあれば聖書と牧師を容赦なく批判して、
多数決で勝てば、建物と組織はその人たちのものになる。
「そんなの教会じゃない」とか言っても後の祭り。
牧師と年配信者が「共依存関係」にあるのは、これどうしたらいいんですかね。
牧師にも家庭があったり、生活があったりするんで、
しっかり献金してくださる方々を「優先」する思いは無くても、
その人たちを怒らせてしまったら困るとは思う。
教会の「鍵」が壊れていて、出入り自由になってしまっているんで。
日本の神学者とかキリスト教学者とか名乗る人たちが、
教会のことを「ヴォランタリー・アソシエイション」だとかのたまわったときは、
正直こけそうになりました。
「自発的」(ヴォランタリー)に集まる集団なんだから、
そりゃ「出入り自由」だと勘違いする人、続出しますわね。
ぼくが言いたいことは、
「戒規」という制度を持っているかどうかということよりも、それが「壊れている」ことの問題です。
どの教団・教派には戒規制度があるが、それが無い教団・教派もある、という話ではありません。
全キリスト教会に「鍵の権能」は与えられているのです。
急に不機嫌ぽい書きっぷりですいません。
べつに何かあったというわけではなくて、20数年の積年の思いが出てきた感じです。
これは愚痴というより、厳粛なる抗議です。
だけど、この抗議文を送るべき宛て先が分からない。
「民主主義の皆さまへ」でしょうか。
そんなバカな抗議文もないので、書いては捨て、書いては捨てのボツ稿です。