「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」
いまお読みしましたこの個所に書かれていることは、かなりストレートな書き方でもありますので、疑問の余地がないと言いますか、読んで字のごとくそのままの意味でだれでも容易に理解することができるものだと思います。
しかしまた、別の言い方をすれば、身も蓋もないという感じがなくもない。強く批判的な態度を示すタイプの人たちにすれば、あまりにも言葉が露骨すぎて、いろいろな立場にある人たちへの配慮が足りないのではないかと言いたくなるようなことかもしれません。
しかしこれは、これまで何度も繰り返し申し上げてきたことですが、(いろんな解釈の可能性があることは存じておりますが)、この手紙はパウロからテモテに対してごく個人的に送られたものであるとみなして読むと、いちばん腑に落ちるものがあると、私は考えています。
彼らは教会の牧師であり、伝道者です。同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係です。時間的順序からすれば、後輩が先輩の苦労を知っているということは通常ありません。しかし、先輩には後輩の苦労が分かります。
厳密に言えば一つ一つの苦労は内容が違いますし、状況や年代の違いがありますので、後輩の苦労のすべてが先輩には分かるわけではありません。先輩づらは禁物でしょう。
しかし、同じ仕事に就いている先輩と後輩の関係の中で先輩にできることがあるとすれば、それは、苦労している後輩のその苦労を理解し、受け容れること。そして、慰め、励ますことです。そういうことを、パウロがテモテにしているのです。
ここに書かれていることは、要するにお金の問題です。あるいは、生活の問題です。衣食住の問題であると言ってもよいでしょう。しかし、「住」の問題は、触れられてもいません。住むところなんてどうだっていい、と言わんばかりです。
しかもこれは、教会の牧師どうしの会話として書かれていることですから、これは間違いなく教会内部の話です。牧師の生活の話であり、はっきりいえば牧師が教会から受けとる給料の話です。こういうふうに言ってしまいますと本当に身も蓋もなくなってしまうものがあるのですが、そうであるとしか言いようがないことが書かれています。
その中にとにかくはっきり書かれていることは、「食べる物と着る物があれば、わたしたち(パウロとテモテ?)はそれで満足すべきです」(8節)ということです。
ここに書かれていることの意味は、「贅沢な食べ物と贅沢な着る物があれば、わたしたちは満足することができます」というようなことではありえません。そういうことではなく、とりあえず生きることができればそれで十分だ、というような話です。
パウロに限っては、贅沢なものを食べ、贅沢な服を着るなどということは考えたこともないようなこと、脳裏をかすめたことすらないようなことなのではないかと思うくらい、そういうものから無縁です。
そのことは、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。」(9節)と書かれていることからも分かります。
誤解がないように申し上げておきますが、この個所でパウロは金持ちになることが悪いと言っているのではありません。誘惑や罠や欲望に陥る、または陥りやすくなると言っているだけです。どんな誘惑にも罠にも欲望にも陥らない強靭な心をもっていると言える人であれば、その人はある意味で、お金持ちになっても構わないのです。
しかし、それほど強い人は存在しない、ということもパウロは考えているようでもあります。そして、そのことは、教会の牧師、伝道者も同じであるとパウロは考えています。
というか、そもそもパウロが書いていること自体は、教会の牧師、伝道者の話です。教会の牧師がお金持ちになろうとするということがあるとしたら、それは教会員の献金を当てにした話にならざるをえませんので、それが何を意味するのかということは、よく考えなくてはならないことです。
教会の献金によって教会の牧師、伝道者の生活が支えられていたのは、今に始まったことではありません。二千年前の教会から始まっていることです。そして、今日の個所に書かれていることを読むかぎりで分かることは、二千年前の教会から牧師の生活にはお金の苦労が伴うものだったらしい、ということです。
以前、朝の礼拝でお話ししたことがありますが、パウロはかつて結婚していた可能性があります。その根拠になる聖書個所があります。「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」(コリント一9・5)。
この個所にパウロが「私にも妻がいた」と書いているわけではありません。しかし、他の伝道者たちのように自分の妻を連れて歩く権利が、わたしたちにはないのか、と言っていることは間違いありませんので、古代教会以来の解釈として、パウロには過去に妻がいたが、伝道旅行に連れ歩くことになるのを避けて別れたのだ、というふうな理解の仕方があるのです。
実際それは、よく分かる話でもあるわけです。結婚すれば、子どもが生まれたり、家族が増えたりします。牧師一人の生活と活動ならば教会は支えることができる。しかし、家族は別であるという話になることもありえます。パウロにも人に言えない苦労があったのではないかと思うのです。
しかし、いま申し上げていることは、私が言っていることではありませんので、あしからず。今日の個所でパウロは何を言おうとしているのかを考えてみているだけです。
私自身は、結婚しました。子どももいます。そのことを悪かったと後悔したことは一度もありません。
私にとって家族はかけがえのない存在です。結婚や出産や子育てが「伝道」にとってマイナスだと考えたことは一度もありません。むしろプラスではないでしょうか。
それに、日本だけではないと思いますが、今の教会は牧師が結婚することや子どもがいることを、むしろ積極的に奨励する方向にあるのではないでしょうか。いつまでも独身のままの牧師がいると、「早く結婚しろ、結婚しろ」と周りから催促されるほどではないでしょうか。
お金の苦労だとか、結婚や子育ての苦労だとかいうのは、あまりにも人間くさすぎて、神に仕える者としてふさわしくないという話になるのでしょうか。そうかもしれません。
しかし、少なくとも、話のタネにはなります。町の人たちと仲良くなれます。「ああ、なんだ、我々と同じなんだ」と思ってもらえます。PTAの仲間に加えてもらえるチャンスもあります。教会の敷居を低く感じてもらえ、親しみを感じてもらえます。それも「伝道」ではないでしょうか。
そのように、私は自分に都合よく解釈しています。
(2013年8月25日、松戸小金原教会主日夕拝)