2008年4月20日日曜日
殉教の覚悟
使徒言行録21・1~16
使徒パウロはミレトスでエフェソの長老たちへの別れの言葉を語った後、エルサレムをめざして歩き始めました。パウロのうちにはっきり自覚されていたのは「殉教」の二文字でした。わたしはエルサレムで殉教するという覚悟をパウロは持っていました。しかし、そのような覚悟をパウロが持っているということを、パウロの周囲にいた人々は、とても嫌がったのです。その様子が今日の個所からありありと伝わってきます。
「わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。」
パウロの旅行の経路につきましては、実際に現地に行ったことがない私には正しく説明することができません。新共同訳聖書の巻末付録の地図「8 パウロの宣教旅行2,3」をご覧いただきたいと申し上げる他はありません。この地図を見るかぎり、ミレトスからティルスまでは、ずっと船に乗って地中海を渡っていたようです。
そのことよりも、今日は、これまでにまだ一度も触れていない問題に触れておきたいと思います。それは、使徒言行録において今日の個所を含めて四か所出てくる「わたしたちは」から始まる文章(16・10~17、20・5~15、21・1~18、27・1~28・16)の問題です。「わたしたちは」という文章を書いたのは、誰なのでしょうか。その人はなぜこのように書いたのでしょうか。この問題は、多くの聖書注解者によって取り上げられ、論じられてきたものです。
ともかく一つだけはっきりしていることがあります。それは「わたしたちは」と書いているのはパウロ自身ではないということです。しかし、パウロでないとしたら、誰なのでしょうか。すぐに思い至るのは、パウロと同行した弟子の誰かであるということでしょう。もしそう考えてよいとしたら、16・10~17に「わたしたち」と書いたのは第二回伝道旅行の際のパウロの同行者であるシラスとテモテのどちらかです。しかし、使徒言行録はルカによる福音書を書いたのと同じ著者ルカが書いたと考えられるものです。そちらのほうを立てると、だれが「わたしたち」と書いたかが分からなくなるのです。
十分な時間がありませんので、ただちに結論的なことを申します。現在の聖書注解者が概ね了解している見方を紹介しておきます。それは、使徒言行録における「わたしたち」は、読者を聖書の世界の中に、またパウロの伝道旅行の中に巻き込むために著者が用いた文学的手法であるということです。
こういう見方を紹介する意図は、この問題に良い意味であまり深くかかわる必要はないでしょうということをご理解いただきたいからです。著者ルカがパウロの伝道旅行に同行していたかもしれないという可能性や、シラスかテモテが書き残した日記のようなものを著者が利用したかもしれないという可能性も、完全に否定することはできません。しかし、それよりもはるかに単純で納得できるのが「これは文学的手法である」という可能性です。
読者の中に、もちろんわたしたち自身も含まれています。そうだとすれば、わたしたち読者は、まさにパウロと共に船に乗り込み、彼と共に旅行しているという思いを持つこと、また、殉教を覚悟しているパウロの心の中身を思いめぐらし、かつ共感しながらこの個所を読むことが重要なのです。
「彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。」
パウロたちはティルスに到着しました。しかしそこで出会ったのは、パウロの旅を応援する人々ではありませんでした。正反対です。そこで出会ったのは、パウロのエルサレム行きに反対し、なんとかして行く手を阻もうとする弟子たち(キリスト者たち!)でした。
しかし、ティルスの人々が反対した理由は明らかでした。パウロには死んでもらいたくなかったのです。生きてもらいたかったのです。ですからそれはもちろん全くの善意から言っていることなのであって、決して悪意を持っていたわけではありませんでした。
「彼らは“霊”に動かれていた」とあります。“霊”とは聖霊なる神です。つまり彼らは、聖霊なる神御自身に導かれて、パウロの行く手を阻もうとしたのです。この点は重要です。なぜなら、彼らが“霊”に動かされてパウロに真剣に問うたことは、あなたの殉教は神の御心にかなっているものではないのではないか、ということに違いなかったからです。
ここでわたしたちが考えたい問題は、同じひとりの神が別々の人に対して、相矛盾する別々の言葉をお伝えになるだろうかということです。同じひとりの神がパウロに対しては「エルサレムに行って殉教しておいでなさい」と言われる。他方で、ティルスのキリスト者に対しては「パウロがエルサレムに行くとそこで殉教しかねないので、阻止しなさい」と言われる。もしそれが事実であるならば、そのような神とはいったいどういう神なのかという点に疑問を持つ人々が現われても、おかしくないでしょう。
しかしパウロは先へと進んで行きました。反対する人々の声に耳を貸そうとしませんでした。パウロはやはり強情な人だったのでしょうか。人を人とも思わず、人の善意を理解せず、また聖霊なる神の導きさえも無視して、自分勝手な判断に基づいて、物事を強引に進めて行く人だったのでしょうか。そのような面があったかもしれないということを否定することはできそうにありません。
ところが、そのようなパウロを見て、ティルスの人々がとった行動には、胸を打たれるものがあります。妻子を連れて町外れまで見送りに来てくれた。ひざまずいて祈り、別れの挨拶をしてくれた。いくら止めても止まらないパウロを見限るのではなく、恨みごとを言うのでもなく、すべてを神に委ね、祈りをもって送り出す彼らの姿は、とても立派です。
ところで、ここでも注目していただきたいのは、「わたしたち」です。ティルスの人々がパウロのエルサレム行きに反対したとき、「しかし、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした」と書かれています。ここで分かることは、この時点において「わたしたち」は、ティルスの人々の側ではなく、パウロの側に立っているということです。ところが、次の段落において変化が見られます。この変化に注目することが重要であると思われます。
「わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。『聖霊がこうお告げになっている。「エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。」』わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。」
パウロ一行は、カイサリアに住んでいたフィリポの家に泊まりました。そこにアガボという預言者が来て、パウロがこれから受ける苦難の様子を預言しました。
そうしますとこのとき、先ほど申し上げた変化が起こります。「わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ」とあります。「わたしたち」は、ティルスの人々が反対したときには、パウロの側に立っていました。ところが、その同じ「わたしたち」が、アガボの預言を聞いた途端に、今度はパウロの側に立つことをやめて、パウロのエルサレム行きに反対しはじめたのです!
ここで考えておきたいことは、この変化の意味です。先ほど私は、使徒言行録における「わたしたち」は、読者を聖書の世界の中に、あるいはパウロの旅の中に巻き込むための文学的手法であると申しました。しかし、それは一つの可能性であって、絶対的に確実なことではありません。とはいえ、わたしたちにとって大切なことは、誰が書いたかということよりもむしろ、この変化が起こったことをわざわざ読者に知らせようとしている使徒言行録の著者の意図は何かということです。
はっきり分かることは、この時点においてパウロは完全に孤立するに至ったのだ(!)ということです。ティルスでは、そこに住んでいたキリスト者たちが、パウロに強く反対しました。しかし、その反対を押し切って旅を続けました。ところが、カイサリアに至ると、とうとう「わたしたち」までが、パウロに反対しはじめました。
このことを、次のように整理して申し上げることができます。パウロは、聖霊なる神に導かれたティルスの人々にも逆らい、また預言者アガボの言葉を信じた「わたしたち」にも逆らうことになりました。その結果、パウロに味方してくれる人は、ついに誰もいなくなったのです!
「そのとき、パウロは答えた。『泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。』パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ。」
パウロは、どんな反対があっても、完全に孤立することになっても、エルサレムに行くことをやめませんでした。ここに、彼の生きざま、そして彼の信仰がはっきりと示されています。「主イエスの名のためならば」というただ一つの動機だけがパウロの背中を押してやまなかった様子が伝わってきます。わたしたちは、このようなパウロの生きざまと信仰をどのように理解すればよいのでしょうか。二つの点だけ申し上げておきます。
第一に、私はやはり、ティルスの人々が聖霊なる神の導きによってパウロに反対したという点を重視したいと願っています。殉教すること自体、死ぬこと自体は、神の御心ではないのです。死んでもよい人、殺されてもよい人などは一人もいません。殉教こそが神の御心であると語ることは、わたしたちには不可能です。神の御心は生きることです。なんとしてでも生き延びることです。「どうぞ死になさい」と勧めるような神がいるとしたら、そんなのは神ではないのです。
第二に、しかし、パウロの立場を最大限に尊重するならば、次のように申し上げることができます。パウロには、たとえどんなに反対されても、彼一人が孤立することになっても、エルサレムに行かねばならない理由があったのだということです。同胞であるユダヤ人、神の民イスラエルを、真の救い主イエス・キリストを信じる信仰へと導くためです。エルサレムへ行く道は、彼にとってはどうしても避けて通ることができなかったのです。迂回路(バイパス)はなかったのです!
(2008年4月20日、松戸小金原教会主日礼拝)