2008年4月24日木曜日

「日本の神学書」評(2/2)

ファン・ルーラーは、自分より上と見た相手、とくに国際的影響力を甚大と見た相手に対しては、歯に衣着せず、容赦なく批判した人です。そのファン・ルーラーが、こともあろうに、マルティン・ルター、ヘルマン・コールブルッヘ、カール・バルトの三人をつかまえて、「ルター、コールブルッヘ、バルトのような教義学者はモノマニー(偏執)の危険に陥りかねない」(A. A. van Ruler, VW, deel 1, 92)と言い放っていたということを最近知りました。もちろんそれは、ルターがもっぱら「義認論」を、コールブルッヘがもっぱら「恩恵論」を、バルトはもっぱら「キリスト論」を、一点集中的に過度に強調して語ったことを指しています。水戸黄門の印籠のように!○○の一つ覚えのように!「義認」や「恩恵」や「キリスト」が重要でないと語るキリスト者が多くいるとは思いたくありません。しかしだからこそ、そこが罠にもなるのです。誰も反論できない重要な事柄を一つだけ前面に掲げ、あとは数の力に任せて突進してくる相手に反対するのは容易なことではありません。最近では「日本プロテスタント宣教150周年」というワンフレーズがやたらと目につくようになりました。しかし、「同語反復」や「ワンフレーズポリティクス」は、今日の我々のごく常識的な認識においては、まさに洗脳の方法でもあり、大衆扇動の手段でもあるでしょう。「我々もあれと同じことをやりますか?」(そんなことは恥ずかしくて私にはできそうもない)という問いが残るのです。私は、(改革派的・キリスト教的)教義学の各論を、各領域に固有な原則に立って(同語反復や一元論的偏執に陥らないで)、とことんまで突き詰めて論じている書物を、ファン・ルーラーのもの以外に見たことがありません。医学の知識は皆無なのでとんちんかんなことを考えているのかもしれませんが、たとえば「眼科医の論理」と「耳鼻科の論理」と「産婦人科医の論理」と「泌尿器科医の論理」は同じでしょうか。同じ論理や視点をどの分野にも等しく当てはめることができるのでしょうか。それは無理であろうと私には感じられます。お腹が痛いときに眼科で診てもらおうと思う人は、たぶんいません。教義学においてさえ、啓示論と聖書論とキリスト論と聖霊論と終末論は、それぞれ異なる論理や視点を持っているのです。オルガンとピアノとハープとヴァイオリンとトランペットを「音楽」の一言で括った途端に「あはは、大雑把ですね」と笑われるのと同じように、キリスト論の論理で聖書論や教会論や宣教論を解こうとしたり、キリスト論の論理で聖霊論を説明しようとすることは大雑把すぎるし、議論の内容としては全くお話しにならないものです。総論や概説のようなものだけを読んで「キリスト教が分かりました」と語ることはできません。ミクロ的視点を持つべき専門家たちは、各論に固有な論理を尊重しなければなりません。何でもかんでも一緒くたにすることは、端的に言って暴論なのです。それとも、各論の専門家レベルのミクロ的知識や議論を「書物の形態」に期待することは無理というべきでしょうか。「売れる本」でありさえすれば、それで良いのでしょうか。