2008年4月24日木曜日

「日本の神学書」評(1/2)

日本で出版される「神学書」と呼ばれているものの多く、とりわけ「組織神学」に関するそれ、なかでも「教義学」に関するそれは、たとえていえば、あの『家庭の医学』(時事通信社)のようなものばかりであると感じてきました。『家庭の医学』はとても立派な書物であり、私自身、大変重宝しています。が、しかし、あれを百回熟読しても「医師」を名のることはできないと思いますし、(法的な意味での)「医療行為」を行うこともできません。日本の組織神学の書物の現実も、それと限りなく似ているものがあると言わざるをえません。見かけるのは総論と概説ばかり。教会史的・神学思想史的鳥瞰図が紹介されている便利なものは増えてきましたが、所詮、歴史は歴史です。過去のだれそれさんが何をどのように主張し、それがその後の歴史においてどのような影響を及ぼしたかは、知識や教養のたぐいとしては、いくらあっても困ることはありません。しかしまた、だからといって、そのあたりのことがどれだけ詳しく書かれてあっても、そのうちだんだん「だから何?」(So what?)という不快な気分になってきます。不断の日進月歩を続けているのは医学も教義学も同じです。最新の状況に対応できる最新の知識と技術を手にしている人が真の専門家と呼びうるでしょう。21世紀の人々に16世紀や17世紀の人間が語った言葉をただ伝言するだけなら、「それは昔話である」と認識されても仕方がないでしょう。教義学は、教会の歩みが続くかぎり、社会と教会の関係が続くかぎり、いえ、神に造られた人間が存在し続けるかぎり、日進月歩を続けていきます。もちろん「改革派教義学」も、事情は全く同じです。「改革派教義学」が16世紀の宗教改革期に始まったものであることは否定しませんが、「17世紀に完成された」と語ることはできません。21世紀の今日に至るまで、それは完成しておらず、日々変化し、絶えず試行錯誤がなされています。なぜそのような変化が起こるのでしょうか。私が特に考えていることは、「神の啓示を人間が受信する場合、我々人間は、それをとりわけ意識と感性という皿の上で受けとめようとする」という点です。意識と感性は・・・ほら、今この瞬間にも変化し続けているではありませんか!「聴く耳」が絶えず変化していくのですから、「語る口」のほうもその変化に対応せざるをえなくなるでしょう。マスコミの影響力も大きいです。神学と説教がポピュリズム(大衆迎合主義と訳しておきます)に陥ることへの警戒心は、当然のことのように私も持っています。しかし他方で、私にとっての深刻な問題は、神学と説教において「受けを狙う」必要はないけれども、だからといって同じようなフレーズを繰り返すばかりでは「飽きられてしまう」ということです。20年前に私もそこにいた説教学の講義の中、教授によって発せられた「居眠りを誘発する説教は神学的に正しいか」という問いかけに、今なら確信をもって答えることができそうです。「人間はどうしたら啓示を認識することができるだろうか」という問いを前にしたとき、我々は、人間の意識と感性などの側面を無視するような態度をとるべきではありません。その側面を無視するような神学は、少なくとも「改革派神学」ではありません。