2008年4月13日日曜日

夜も昼も涙を流して


使徒言行録20・25~38

今日見て行きますのは、使徒パウロがエフェソの長老たちを前にして語った演説の続きの部分です。この演説は、パウロ自身の人生の終わりを意識し覚悟しつつ語られた別れの挨拶です。そのような言葉をわたしたちは遺言(ゆいごん)と呼ぶのです。これはパウロの遺言です。そして、そうであることがはっきり分かるように語られたので、エフェソの長老たちは激しく泣いたのです。

「『そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。』」

この演説を聞いているエフェソの長老たちにとって、パウロが語っている「あなたがたがもう二度とわたしの顔を見ることはない」の意味は、わたしパウロがもう一度この町に帰ってくることはないということだけではないと分かっていました。パウロがエルサレムで待ち受けているであろう事態は、ユダヤ教団当局との対決、逮捕・投獄、そして処刑。そのようにして伝道者パウロの人生が終わりの日を迎えるのです。そのことを、パウロははっきりと自覚し、覚悟していました。

しかしそれにもかかわらず、彼はひるむことがありませんでした。神の御計画のすべてを、ひるむことなく、公衆の面前でも・方々の家でも、ユダヤ人にも・ギリシア人にも、宣べ伝えました。言葉を尽くして、一つ残らず、まさにすべてを語ろうとしました。

そして、そのためにこそ、パウロの説教は長々としたものにもなり、それを聴いているうちに居眠りし、三階の窓から落ちて死んでしまったエウティコのような人を生み出してしまったということまで書かれていました。

人が死ぬという話を冗談めかした調子で語ることは、許されないことかもしれません。しかし見方を換えれば、パウロにはそれくらい一生懸命に、長い時間をかけて徹底的に、神の御計画のすべて、つまり、この世界とこの人間とが救われて生きるために神御自身が御計画された定めの全貌を語って来たことの誇りないし矜持(きょうじ)があったのです。

そして、だからこそパウロははっきりと語ることができました。「だれの血についても、わたしには責任がありません」と。これは不思議な言葉です。しかし、意図は分かります。「だれの血」の「血」とは、殉教者の流す血を指しています。神の教えに従って生きかつ死ぬ者の命そのものです。その血ないし命の責任は、パウロにはない。伝道者ないし説教者にその責任はない。これはある見方をすれば、もちろん冷たく突き放すような言葉です。責任はあなたがた自身にある。自分で責任を取りなさいということです。

しかし、その裏側には教育者的な愛情が満ちています。今やあなたがたは責任を自分で取ることができるほどに成長したではないかということです。あなたがたはもはや子供のままではありませんということです。自分で判断し、決断し、自分の進むべき道をきちんと選び取って生きていく大人になりましたということです。

いろんな言い方ができると思います。あなたがたは大人の信仰者となり、成熟した教会人となりました。そのような者として、自己責任において態度決定することができるようになりましたということです。あなたがたはもはや誰かの指図に従って生きる者ではありません。「パウロ先生がこうおっしゃったからこうしました。パウロ先生が何もおっしゃらなかったから何もしませんでした」というような他人任せの甘えた態度を取ることはもう許されませんということです。

もっと積極的に言いなおすこともできるでしょう。あなたは自分が生きたいように生き、やりたいようにやりなさいということです。このように考えること、つまり、自由と自己責任において生きることを、キリスト者たちは恐れるべきではないのです。

しかしまたこれは、別の言葉で語りなおす必要もあるところです。それは何でしょうか。すべてのことを自己責任において判断し、決断して生きていく大人の信仰者として認めていただけるためにこそ、パウロが言葉を尽くして語った“神の御計画の全貌”を徹底的に学び、受け入れることが必要にもなってくるのだということです。

「神の御計画」とは、世界と人間をお造りになり、救われる神の計画のことです。時間にすれば、世界の初めから終わりまであります。もちろんその中に、人類の歴史の全体が含まれます。

そのすべてを完璧に学び尽くすことは、わたしたちには不可能であるというべきです。完璧である必要はありません。教会は完璧主義的な何かを教えることも求めることもありません。わたしたちに求められることは、全生涯をかけて、ひたすら学び続けることです。わたしたちの学びに卒業式はありません。強いて言うならば人生の終わり、ただそれだけが卒業式なのです。

たとえば、パウロはエフェソの長老たちに「すべてを語った」と言ったかもしれません。しかし、パウロがその言葉を発した直後に神の新しい御計画が始まるのです。ですから、パウロが「神の御計画のすべて」を語ることは、厳密に言えば不可能なことです。わたしたちも同じです。「すべてが分かった」と確信できたその直後にさらに新しい歴史が始まるのです。わたしたちが知っていることは、正確に言えば「すべて」ではありえないのです。

「『どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。』」

繰り返し申せば、この演説は、エフェソの長老たちに向かって語られているものです。長老とは教会全体の責任者です。牧師は長老の一人です。我々の言葉で言い直せば“小会”のメンバーです。

牧師と長老に負わされている務めは、パウロが語っているとおり、教会全体への気配りと世話と監督です。この順序も重要だと思います。三番目に言われている監督という要素だけが独り歩きすると、長老と他の教会員との関係が悪い意味の上下関係のようになってしまうでしょう。

しかし、教会の組織は、そのようなものではありません。長老たちの第一義的任務は、監督的に上に立つことではなく、徹底的に奉仕者として、仕える者として、下に立つことです。牧師も長老の一人であり、他のだれよりも仕える者として、下に立つ者でなければなりません。

しかしそれでも、長老には、あるいは“小会”には特別な権限ないし権能が与えられているし、与えられるべきであるということは認められるべきです。長老には強い力が必要です。問題は、その力を長老は何のために用いるのかということです。パウロの演説の中にその答えがあります。それは何でしょうか。

「『わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。』」

長老に与えられている権限ないし権能、そして力とは、残忍な企みを凝らし、あるいは邪説を唱えることによって教会を荒らす人々から、教会の群れと教会の教えとを守ることです。

長老の力とは第一義的に“守る力”です。「守るべきものを持っている」と言える人は、強いのです。なぜなら、そのために本当に文字どおりの命をささげますから。そのために死ぬことを少しも惜しいとは思いませんから。余計なことは言わないほうがよいかもしれませんが、「守るべきものは何もない」と思っている人は弱いです。だれのためにも、何のためにも死ぬことができない。自分が真っ先に逃げるのです。

しかし問題は、長老たちは何を守るのかという点にあります。教会という組織でしょうか。そのこともとても重要なことです。教会の教えや聖書の知識でしょうか。そのことももちろん重要です。しかしそれだけでしょうかと問うておくべきです。

ここで考えるべきことは、教会という組織、また教会の教えや聖書の知識は、それ自体が目的であるという面を持っていると同時に、それは手段でもあるという面も持っているということです。教会とその教えは、この世界と人間をよりよく生かすためにあります。この世界と人間は、教会の中で、教会と共に、教会の教えに基づいて、よりよく生きることが重要なのです。

ですから、長老たちが守るべきものは、教会とその教えだけではないというべきです。教会とその教えと共に生きるすべての人々の生活ないし人生そのものを守る必要があるのです。そしてもちろん、そのすべての人々の中に、長老自身、また長老の一人である牧師自身が含まれています。わたしたちにとって重要なことは、教えや知識の面だけではなく、いわばそれ以上のこととして、生活と実践の面が重要なのです。

しかしまた、その生活と実践の土台は教会とその教えであるという点も、語りうることです。だからこそ、パウロは「三年間、夜も昼も涙を流して」教え続けたのです。そのことを“守る力”を与えられた長老たちに思い起こさせること、それがパウロの遺言として語られたこの演説の趣旨です。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」
 
教会とその教えは「神とその恵みの言葉」を土台にして立っています。神が存在しなければ、教会はむなしいものであり、宣教もむなしいものです。

しかし、神は存在する!生きておられ、働いておられる!

パウロは「神とその恵みの言葉」“に”エフェソの長老たち“を”ゆだねました。

それは、わたしたち自身にも受け継がれています。わたしたちは、神とその恵みの言葉の上に立っているのです!

(2008年4月13日、松戸小金原教会主日礼拝)