(「日曜日に救われる(3/3)」にお寄せいただいたコメントへのお返事を本編のほうに書かせていただきます。私の人生に直接関わる大問題なのです!)
コメントありがとうございました。牧師の道をゼロ地点から出発して苦労して歩いてきた者にとっては、牧師家庭に生まれ育って牧師になったような人のことがうらやましく感じることがあります。しかし、牧師の子供の中には「牧師になど死んでもなりたくない」と心に誓っている人が少なくありません。自分も牧師になった人の中には「親の仕事を受け継いだつもりはない」と言い張る人もいます。私の今の考えは、どのような家庭に生まれようと、教育環境にどれほど恵まれていようと、「自分の意思で入れようとして入れたことしか、正確なものは出てこない」ということです。言いたいことは頭の中身の問題です。インプットとアウトプットの関係の問題です。オランダ語の本を読んでいると分かるのです。読んだことのない本の中身を正確に説明できる人はいません。また、外国の知らない単語や熟語に接したとき、辞書を調べなくてもその意味が分かるという人は一人もいないはずです(いたりして)。自分の手で辞書をめくった回数が、その人の書きかつ語る言葉の重厚さに比例するでしょう(「自分の手で辞書をめくる」というかなり時代遅れな表現は、象徴的な意味で書いていることです。電子辞書やウェブ辞書などを否定するものではありません。あれは今、かなり重宝しています)。「親の受け売り」や「耳学問」はいかにも軽すぎます。私はそういうのはプライドが許さない。恥を知れと言いたくなります。ぞっとするような薄氷の上を平気で歩いていける人の神経を疑います。加えて、ネポティズム(縁故主義)で成り立っているような教会・教派・教団は、早晩堕落するでしょう。私が知っている最悪のケースは、その教会の初代牧師であった亡き父親を「先代の御霊」と呼んで神聖不可侵(サクトサンクト)の存在に仕立て上げ、教会支配の事実上の手段にしてしまっている二代目牧師です。ここまで来るともはや異端です。教義学的に言えば、「聖霊論」の理解が根本的に間違っています。キリスト論における異端が教会に及ぼすダメージにも相当甚大かつ決定的なものがありますが、聖霊論における異端には人命を危険にさらす猛毒性があります。まさにゼロから、キリスト教の「キ」の字も神学の「し」の字もないところから出発なさった方の好奇心に満ちた目には、美しくさわやかな輝きがあります。牧師は説教壇から一人一人の目の輝きを見ています。澱んだ目を見てしまうと、萎える。美しい目を見ると、力強く語ることができます。牧師とは、どうやらそういう生き物なのです。