2008年4月11日金曜日

日曜日に救われる(2/3)

調べるすべがない。でも知りたい!しかし「キリスト教とは何なのか」というこの問いに答えてくれる教師は高校にはいませんでした(求めること自体が間違っていたわけですが)。一家で通っていた教会でしたので単独で別の教会に通うわけに行かず(当時の感覚です)、教会でも学校でも書店でも納得できる答えを教えてもらえない問いの前で、高校の学業そっちのけで(!)ひとり悶絶する日々でした。いわばこれこそが思春期最大の悩みでした。そして、正直なところを言えば、「牧師になりたい。そのために神学校なるものに行きたい」と決心した最初の動機は、まさにこの「キリスト教とは何なのか」という問いの答えを得たいという一点でした。「キリスト教とはこれだ!」と確信を得た「ので」神学校に入学し、牧師になろうとしたわけではありません。その反対でした。大いなる謎と問いと悩みを引っさげて、何の知識もないまま、東京神学大学に駆け込んだ(より正確には「逃げ込んだ」)のです。高校を卒業するまで、神学書など一冊すら読んだことも買ったこともなく、持っていたのは聖書と讃美歌だけでした。その聖書さえほとんど読んだことがありませんでした。また、讃美歌に至っては「待降節」という字の読み方さえ知らない体たらく。東京神学大学の入学試験の結果を言い渡された教授会面接の一部始終を忘れることができません。山内眞先生(当時はたしか助教授。現在は学長)から(私にとってはもちろん初対面の)教授会全員の前で、「まあ他の試験の結果のことはともかくや・・・(しばし間)・・・。そんなことより、聖書(についての知識)の試験のこの結果は、なんじゃいこれ?全く書けてへんやないか!限りなく零点やど。キミどうするつもりや?」と。「は、はい!これから一生懸命勉強します!」とすっとんきょうに裏返る声で答えたところ、教授全員が大爆笑。赤っ恥をかきながらも、内心では「でもなー、この大学は聖書のことを詳しく教えてくれる学校だと思ったから受験する気になったんだけどなあ・・・。公立高校では聖書の『せ』の字もないわけだから、そこを出てこれから大学に入ろうっていう人間が、聖書のことなんか知ってるわけがねーだろうがよー?」と呟いていました。以上は私が「中規模地方都市の公立進学校の落ちこぼれ」だったことの単なる言い訳です。