2008年4月11日金曜日

日曜日に救われる(3/3)

本題はここから。この落ちこぼれ高校生は、問うても答えを得られない欲求不満でいらいらムシャクシャしているうちに、「不良」と呼ばれる同級生や先輩たちのカッコイイ服装や頭髪を真似してみたくなり、頭髪の色を染めてみようかとか、へんてこな格好をしてみようかと考えました。しかし、そういうことが結局できませんでした。なぜか。「日曜日に教会に通っていたから」です。牧師の説教は終始ちんぷんかんぷんでした。苦痛以外の何ものでもありませんでした。この牧師が説教し続けるかぎりこの苦痛の日々が終わることはないのかと思うと、どうにかなってしまいそうなくらい憂鬱でした。それが生まれてから高校を卒業する18歳までの私の人生でした。しかし、なぜでしょうか、「教会」は私にとって神聖なる場所でした。染めた頭髪やへんてこな格好のままで「礼拝」に出席することが当時の私にはできませんでした。日曜日が「七日ごとに襲いかかってくる」という感覚を得たのはその頃です。「日曜日には普通の姿でいたい。週日に頭髪を染めてしまったら日曜日に教会に行けなくなる(ような気がする)。みっともなくて恥ずかしい。じゃあ、やめておこう」。こんなことを16歳か17歳の頃に考えていたよなあと、妙に懐かしく思い出します。ギムナジウム時代にはバルトやトゥルンアイゼン、カイパーやバーフィンクの神学書、カントやジンメルの哲学書を耽読していたと伝えられるファン・ルーラーとは大違い。アホな高校生でした。